雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

思い出

2006-09-23 22:59:06 | 雑談(ジョーク)
第6,893,458回ブラームス交響曲1番選手権結果。

①カラヤン(BPO in 87) 
②ザンデルリング(ドレスデン) 
③フルトヴェングラー(BPO in 52)

といって僕の判断など文学でいう印象批評のようなものだからきちんとした講評も論拠もない。ロマン派は、所詮僕のような庶民の台頭から生まれたんだからとイイワケして、「Hunter 260」に話を戻したい(ちなみにこのタイトルは、女性を獲物にするHunterの銃にあたるのがHohner 260だ、という意味)。

あのときの問題は、「ブラームスとクララのようなカップルがありえるのか」だった。

こういう問いへの答えは、当時20歳前後の僕には難しかったので、人生経験豊富な方に訊いてみることにした。運よく(?)、大学病院の内科に入院する機会があった。

交通事故で整形外科には入院したことがあったが、内科ははじめてだった。看護婦さんがあまりに「親切」で驚いた。だがその驚きの淵源はすぐにわかった。内科は命に関わる患者さんが多く、入院の重さがちがってた(僕がいた大部屋では8人中5人亡くなった)。

まず入院患者の年齢層が違う。年寄りが多い。整形外科では僕のように単車で事故ったHighteenが大半で生命の危機がない。だから我々にとって看護婦さんは Hunt の対象でしかない。みな交通事故という災難に遭ったんだから、ひとりぐらい釣って帰らないとモトがとれないぐらいに考えていた。

当然看護の緊張感は種類が異なる。内科の看護婦さんの「親切さ」は、生命を終えるものと、終わりがまだ来ないものとの間にある厳然たる壁だった。

というわけで内科の病室は覇気がなかった。この入院で読んでやろうと持ち込んだ本は全く読めなかった。

しかし僕が入ってから急に明るくなったと看護婦さんのひとりがいってくれた。

ただそれは僕の力によるのではなく、僕のとなりのベッドのおじさんを中心にした出来事だったと思う。

Tさんといってロシア相手の会社社長で金回りがよく、その筋の見舞い客も多かったが、なぜか気があって男同士でないとできない話までするようになった。断っておくが、その話とはシモネタではない。『山の音』じゃないが、Tさんは、Tさんの奥さんの妹が好きだったと告白してくれたりした(これは女性が聞いたら怒るよね)。

奇妙だったのは、Tさんの年齢が僕の3倍ある(60くらい)のに、息子さんは4歳だったこと。

なぜそんなに離れてるかというと、20代なかばに結婚して普通に子供ができたのだが、たてつづけに死なれてしまい、奥さんが子供はいらないと拒んできたからだと教えてくれた。それがなぜかその年齢でそういうことになり、高齢出産を乗り越えて、その息子さんが生まれた。

年とってからの子供だから甘やかされてるかと思いきや、素直で礼儀正しく、あまり子供好きでない僕がみても、絵に描いたような(=モデルのような)かわいらしい子供だった。

だからある日の夜消灯前についTさんにいってしまった、「あんな子供を残して逝かれないじゃないですか、酒やめればなんとかなるんならやめてくださいよ!」。

Tさんの肝臓はかなり悪くなっていたが、入院してしっかり酒を断てば大丈夫、といわれてたらしかったから、「もう60になるまで十分酒飲んだでしょ」とかなんとか若僧の僕がいった。

Tさんは僕の真剣さに少し驚いたが、それに応える間もなく、僕の向かいのベッドのじいさんA(78才)にも怒鳴られた。「そうだぞ、お前にゃまだ可能性があるんだろ。あの子が一人残されることを考えてみろっ」。

同部屋のほかの方たちも、言葉では何もいわなかったが、眼差しはAさんと僕に同意していた。それほど子供とTさんのコントラストが痛々しかった。

またAさんの状況も状況だった。Aさんは肺がんでそのとき胸に水がたまる回数が増えていた。一杯になったら抜かなければならないが、そのインターバルがどんどん短くなっていた(その2週間後に亡くなった)。

Tさんは泣き始めて、「わかってますよ」と涙をぬぐって布団にもぐった。

その翌日から病室の雰囲気が変わった。末期患者たちが希望みたいなものをTさんに託し始めたからだったと想像する。

本当にみんな末期だった。

僕の隣のおじさんBは、肝臓がはれて胃の後ろをまわって腎臓を圧迫し、その肥大した肝臓のなかにはピンポン玉の2倍ほどの球体の腫瘍が2つあった。医者は「なんだろーなー」と濁していたが、そんなのよくないに決まっていた(僕の退院後半年して亡くなった)。

僕の左前のおじさんCはTさんと同じくらいの年齢だったが、同じく肺がんで僕が退院する2日前に病室を移り僕が退院した翌日に亡くなった。ほかの患者さんはあとから聞いた話だと肝硬変やAIDSなどだった。

そんな患者たちからなる病室が看護婦さんに「合宿所みたいですねここ」といわれるようになった。

そうなると健康な爺さんも呼び込むらしい。亡くなったAさんの位置に新しくやってきた爺さんDは80歳だったが元気だった。毎日午後になると奥さん(85歳)が見舞いに来るのだが、看護婦さんにチョッカイ出してばっかりだった。

シャワーが浴びれないので看護婦さんが背中などを拭いてくれるのだが、若い看護婦さんにいろいろなところを拭かせようとした。

僕らはみな爆笑した。

Tさんは「あんたビンビンじゃないか、奥さんにバラスぞ!」とハヤシたてただけでなくホントにバラシた。

そんなわけで退院するときは寂しかった(といって住所などは交換しないのがなんとなくのルールだった)。

ルームメイトたちは、なぜか僕がいなくなるとまたもとの内科の病室に戻ってしまうと考えたらしい。学生だから(=暇だから)もっといればいいのに、といい、それだけでなく、僕の退院が延期されるようにイタズラしはじめた(検温のときに僕の体温計を熱湯に入れた)。

また退院前の風邪を引いて熱が下がった翌日、Tさんに「街に繰り出そう」と誘われた。Tさんとしては風邪をぶり返させて退院を延期させるつもりだったらしいが、当然僕はなんともなく、その夜熱を出したのはTさんだった。

パジャマで川崎の繁華街をうろついたんだから当然だった。病院は結構郊外にあったから1時間ほども歩いてやっとファミレスかなんかで飯を食い、ふたりでヘトヘトになってバスで帰ってきた。

看護婦さんに注意されたのは僕だった。Tさんが誘ったのにとも思ったが「すみません」と謝っていたらその背後でTさんが僕にアッカンベーをしていたので全部バラしてやった。僕とTさんは兄弟のようですね、といわれた。

そんなTさんも実は末期だったということがわかったのは退院して外来3回目のときだった。いつものようにお見舞いにいくとTさんがいず、受付の方に聞いたら退院された、といいながら視線をそらしていた。

Tさんは最後まで告知されなかった。看護婦を含めた医療スタッフは告知すべきかどうか迷ったが、Tさんの性格などを考慮して告知しない方針に決めたとのことだった(こういう裏情報を僕が知っているのはそこの看護婦さんのひとりにハーモニカを渡したから)。

その判断を僕は正しいと思った。Tさんは、息をひきとる瞬間まで「オレ癌なんだろ?」と訊いてたらしいが正しいと今でも思う。

Tさんとのことで心残りだったことがふたつある。

ひとつめは、Othelloの勝負。いつも勝っていたのだが、退院の前日「最後ぐらい負けてやれ」とほかの爺さんにいわれて手を抜いて淋しい顔をされた。嘘をうまくつけるほど器用じゃないなら嘘はつくべきでないと思った。

ふたつめ。退院前夜Tさんが「頼みがある」といって、当時としてはとってもHな本の切れ端を僕に渡し、これを始末してくれといった。かなり過激な内容だったから病院のごみ箱には捨てられないとのことだった。僕は退院して持ち帰って自分の部屋の机にしまっておいた。数日後友人がやってきてそれを引き出しの中にみつけて鼻の穴をふくらめて驚いたが、みなかった振りをした。僕は事実を話したとしても説得力があるかどうかわからなかったのでそのままにしたが、あれからああいう趣味が実はあったのかと思われるのは癪だった。

最後になったが、Tさんだけでなく爺さんたちは、ブラームスとクララのようなことはいくらでもあると答えた(Dさんがそのものだったが)。

そういえば室町の歌謡だったかに、8、90歳の老人が、20前後の娘に恋をして、「そんなことあるわけねぇ」と自嘲しながら実は完全に恋に落ちてるなんて話があったことも思い出した。


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