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「竜の口の法難」満750年――「法華経の兵法」こそ無敵 

2021年09月12日 | 妙法

「竜の口の法難」満750年――「法華経の兵法」こそ無敵 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2021年9月12日

 【写真説明】稜線のシルエットの向こうに、雲海を突き抜け、白雪の富士がそびえる。2001年(平成13年)10月、池田大作先生が山梨で撮影した。
 王者の富士のごとく、日蓮大聖人はいかなる烈風にも屈せず、民衆救済の闘争を貫かれた。
 きょう9月12日は、大聖人が斬首の危機に直面した「竜の口の法難」から満750年。文永8年(1271年)のこの日、大聖人は発迹顕本され、凡夫の身のままで末法の御本仏の御境地を顕された。
 御書に「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり」(1151ページ)と。大聖人直結の私たちは、毀誉褒貶の嵐に揺るがず、正義の対話を広げゆこう。
 

池田先生の言葉

 妙法は無限の希望である。
 この永遠の大法則に
 則って生きるならば、
 何ものにも屈しない
 希望が生まれ、
 何ものをも打開する
 希望が広がる。
 私たちの
 日々の真剣な祈り、
 地道な励ましの行動、
 たゆまぬ
 確信の対話こそが、
 千年、万年までも
 人類を導く
 「立正安国」の大道を
 開くのだ。
  
 我らには
 無敵の妙法がある。
 社会の繁栄、
 民衆の幸福のための
 大言論戦に、
 「断じて勝つ」と決めて、
 祈ることだ。
 誰かに
 やらせるのではない。
 自分が、
 わが身を惜しまず、
 戦い抜くことである。
  
 御書を
 心肝に染めた人は強い。
 その胸には
 嵐に揺るがぬ柱が立つ。
 いかなる障魔をも見破り、
 断ち切っていける。
 それが、
 真剣勝負の研鑽で磨いた
 信仰の利剣なのだ。
  
 戦いは、
 勝つと決めた人が勝つ。
 いわんや、
 「一念三千」の妙法を
 行じゆく皆さま方は、
 無量の仏の力を
 湧き出すことができる。
 無数の諸天善神
 動かすことができる。
 これが、
 「何の兵法にも勝る」
 法華経の兵法である。
  
 どうせ戦うならば、
 楽しく戦おう!
 苦難をも笑い飛ばして、
 朗らかに進もう!
 勝てば、楽しい。
 痛快である。
 どれだけ、
 自分自身を
 大きくしていけるか。
 思い切って
 挑んでいくことだ。

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牧口先生 生誕150周年記念インタビュー

2021年09月12日 | 妙法

牧口先生 生誕150周年記念インタビュー 東京学芸大学名誉教授 斎藤毅氏に聞く㊦2021年9月12日

 牧口常三郎先生の生誕150周年の記念出版『「人生地理学」からの出発』(鳳書院)は、牧口先生の地理教育者としての先見に光を当てた書。著者である東京学芸大学名誉教授の斎藤毅氏は、地理学の目的は「世界像」の形成にあり、「人類という普遍性に立ち、自分も他者も共に繁栄しゆく」世界像こそ牧口先生の独創性であり、それはまさに日蓮仏法の思想に通じると指摘する。11日付のインタビュー㊤に続き、㊦を掲載する。(聞き手=小野顕一、村上進)
  

※11日付に掲載されたインタビュー㊤の記事はこちらからご覧になれます。
  

「人生地理学」からの出発
斎藤毅氏
斎藤毅氏
自己を確立し、現世を肯定する
日蓮の思想と響き合う行動理念

 〈牧口先生はその人生の大半を地理教育者として過ごされました。やがて日蓮仏法を実践し、創価教育学会を創立されます。子どもたちに向き合い、地理学の研究に勤しむ中で、学校教育にとどまらない人間全般の生活改革に行き着くわけですが、そこには何か必然性があるのでしょうか〉
  
 私は、日蓮を偉大な哲学者であり、思想家であると考えています。
  
 日蓮の思想の根底にあるのは、「現世の肯定」を前提とした「自己の主体性の確立」です。内村鑑三は『代表的日本人』で5人の日本人を紹介していますが、そこに日蓮が入っているのは当然のことでしょう。
  
 中世の鎌倉では、法然が唱えた専修念仏が流行し、日蓮は「立正安国論」で、正しい教えをないがしろにし、捨て去る念仏こそ、諸災禍を引き起こす元凶になっていると強く訴えました。法然も一面では現世を肯定していますが、日蓮のような主体性はなく、適用の仕方が違います。日蓮は現世に真正面から向き合っています。「現世」とは「自身の人生の舞台」であり、「この地球上に展開している現代の世界」とも捉えられます。
  
 自己の肯定感を確立した上で、現代の世界を「観照」していく。言い換えれば、自己の肯定感が確立できているからこそ、現代世界を正しく捉え直せる――とも言えるでしょうか。日蓮が他国からの襲来があると確信していたのも、そうしたことに由来する洞察の一つであったのかもしれません。「現世の肯定」と「世界を知る」ことは、分かち難く結びついているのです。
  
 私は「慈悲」や「創造的利他主義」などに日蓮の思想の特色があると考えていますが、これらの概念は、自己の主体性の確立によって初めて、本当の意味で発揮されていくのだと思います。
  
 人類という普遍性から自分も他者も共に繁栄しゆく道を訴えた牧口先生の世界像は、現世を肯定しながら他者との絆を結びゆく日蓮の思想――日蓮の世界像と言ってもいいですが――と響き合うものがあったのでしょう。だからこそ牧口先生は、その晩年におのずと日蓮の思想に行き着いたのではないでしょうか。
  

自身のルーツは人類共通の問い

 〈斎藤先生は、地理学は「自分はどこにいるのか」「自分はどこへ行くのか」という根本的な問いに答える学問でもあると述べておられます〉
  
 「自分自身のルーツが何か」ということは、人類共通の問いです。世界各地に伝わる神話の一つ一つも、「自分は何か」「どこにいるのか」「どこへ行くのか」を指し示すものと言っていいかもしれません。日本最古の『古事記』には「国生み」の物語が記されていますが、自分のルーツを求めることは人間の本能ではないでしょうか。画家ゴーギャンの遺作のテーマは、最初の問いが「我々はどこから来たのか」でした。古代から現代に至るまで一貫して抱かれてきた疑問であり、人類は何とかして答えを見いだそうとしてきたのです。

ゴーギャン晩年の傑作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(アフロ)
ゴーギャン晩年の傑作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(アフロ)

 人類が古代から生み出してきた神話や物語は、ギリシャ時代からは哲学となっていきます。そう考えると、どの学問も、どこかで自分のルーツを索めているように思えます。哲学はもちろんですが、歴史学、生物学、心理学は「自分は何か」に答えようとするものですし、天文学や地理学は「どこにいるのか」に答えるものです。
  
 「どこへ行くのか」に答えを与えてきたのが神話であり、宗教でした。例えば、母親を亡くした子どもから「お母さんはどこにいるの?」と聞かれた時、「天国」と答える。これが正しいかどうかはともかく、こう答えることによって死後の世界のイメージがつきやすく、安心感を覚える人もいますよね。
  
 現代においても、科学だけでは説明しきれない、解決し得ないことがたくさんあります。むしろ、科学で判明したことは、ごく一部にすぎません。欠落した未解決な部分、科学的世界観だけでは満ち足りない“空白”が多くあるわけです。何か答えを見いださないと不安で不安で仕方がない。だから、宗教などの世界観を借りてきて、必要に応じて主観的に融合する。こうした複合的な世界観が、人間の一般的な感覚なのだと思います。
  
  
 〈日蓮仏法では自分のルーツを「地涌の菩薩」と呼び、万人の可能性を信じ、自他共の幸福に尽くす生き方の自覚を促します。牧口先生が信仰で見いだしたものの一つは、そうした自分のルーツや人生の目的などに答え得る、日蓮の哲学であったのかもしれません〉
  
 牧口先生と日蓮の世界像が響き合った、ということでしょう。
  
 日本では学校教育に哲学を取り入れることが敬遠されがちですが、学校教育の場でこそ、こうした哲学を学んでいくべきです。宗教も広義の哲学です。日蓮をはじめとする鎌倉仏教の祖師を、宗教者ではなく哲学者として深めていってもいいのではないでしょうか。災害が続いた、あの危機の時代にあって、どう乗り越えていくかを、仏典を研さんし、考え抜いた英知の結晶なのですから。
  
 牧口先生は、長年にわたって教育現場で子どもたちと相対してきたように、日蓮の仏法に対しても、あくまで実践を深める中で思索を重ね、独自の創価教育論に到達されたのでしょう。その根本理念にあるのは、自他共に幸せになるための価値を創造し、その価値を広げゆくために行動する人格を育てる教育――私はそう理解しています。
  
  
 〈斎藤先生の著書には“絶えず更新していく豊かな世界像は、安定した人生観の形成にも通じる”と記されています〉
  
 より良い自分を発見し、導き出していくためには、世界像の絶えざる更新が不可欠です。それには他者との対話、異なる世界との交流という営みが欠かせません。繰り返しになりますが、世界像とは世界をどう見るかということであり、それは人間をどう見るかということに通じます。
  
 直接、向き合って話すのもいいですし、本を読むなど、さまざまなツールから得られるものもあるでしょう。対話自体が世界像の形成といえますが、ここで情報を整理するために必要なのが「自前の知識」です。それは文学や絵画、音楽、スポーツ、あるいは雑学かもしれないし、時には地名かもしれません。会話の際なども、相手が自分の出身地や興味などについて知ってくれていると、うれしいものです。「自前の知識」は親交のきっかけにもなり、対話を発展させる潤滑油ともなります。
  
 地理で学ぶ地名も一夜漬けの暗記では、テストが終わってしまえば、淡雪のように消えてしまいます。しかし、例えば大好きな歌手がいる国や都市の名前などは、その人の笑顔とともに、その人が住む場所の鮮やかなイメージが浮かぶことでしょう。

牧口先生が著した『人生地理学』
牧口先生が著した『人生地理学』

 『人生地理学』の冒頭と結びには、吉田松陰の有名な言葉である「地を離れて人なし。人を離れて事なし。人事を論ぜんとせば、まず地理を究めよ」が引用されています。この名言の通り、地理を究めることで自己を知り、豊かな世界像を築くことは、私たちがこの多彩な世界を聡明に生きていくために不可欠なことなのです。
  

好奇心旺盛に価値の創造を

 〈自己を知り、豊かな世界像を築くために、「相互理解の対話」を強調されています〉
  
 私たちは科学的世界観を共有しつつも、その世界観には宗教や文化等による偏りがあります。
  
 例えば、日本人はイスラム教徒と違って、メッカに対して、あまり関心がありません。ですがロンドンやニューヨークについては、かなり関心があります。その逆も考えられます。各々、違うわけですよね。この地球上に、あるいは同じ空間に、異なる世界像を持つ人々が共存しているのが現代です。その中で、互いの世界像を知ろうとし、つながりを求めていかなければ、地球という舞台で起こる諸問題は乗り越えることができません。
  
 米国の文化人類学者であるクライド・クラックホーンに、『人間のための鏡』という著作がありますが、そこでは、異文化こそが自分の持つ文化を映し出す「鏡」であることを指摘しています。「人のふり見てわがふり直せ」とのことわざもありますが、自分一人では自分の持つ文化は分かりません。他人との比較で自分の姿が見えてくる。むしろ人を見ることによって、初めて自己が確立できるわけですよね。
  
 私は「好奇心」こそが人間の最も基本的な感情だと思います。相手を知ろうとする好奇心がないと、関心も湧かないし、疑問も出てきません。先ほどの「自分のルーツ」もそうですが、豊かな世界像を築くには、知的好奇心を持ち続けることが大事です。
  
 牧口先生は、多年の地理教育の現場にあって、あらゆる工夫を施されながら、世界の国々や地域について具体的に見つめていこうとされました。そうすることで、学んだ記憶がより鮮明に残ります。『人生地理学』の各章も、人間への好奇心に満ちた記述ともいえるでしょう。

白金尋常小学校の校長時代、牧口先生(最後列の中央)が、東京・八王子の高尾山で(1928年)
白金尋常小学校の校長時代、牧口先生(最後列の中央)が、東京・八王子の高尾山で(1928年)

 どんな状況にあっても、旺盛な好奇心を持ち、自らつながりをつくっていく。主体的に何かをつかみ取っていく。「創価」とは、まさにそういう意味ではないでしょうか。価値を創造することは、知的好奇心の発露ともいえます。
  
 地理学は、世界中の人たちが共有する科学的世界観の基礎となるものです。しかし、第2次世界大戦後、日本の小・中学校ではGHQ(連合国軍総司令部)の命令を墨守し、地理学を社会科の中に埋没させてしまいました。今なお不完全なままなのは大変残念です。
  
 地理学は本来、学校教育での基本的な考えの上に立って、自分の人生を通して深め続けていくものです。牧口先生の豊かな世界像である『人生地理学』のメッセージを胸に抱きながら、私たちも「自分自身の『人生地理学』」を描いていきたいものです。
  

 【プロフィル】さいとう・たけし 1934年、東京生まれ。理学博士。東京学芸大学名誉教授。専攻は地理学、地理教育論。日本地理教育学会元会長、日本地理学会名誉会員。著書に『漁業地理学の新展開』『発生的地理教育論――ピアジェ理論の地理教育論的展開』など多数。
  

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 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613

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