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〈危機の時代を生きる

2021年09月25日 | 妙法

〈危機の時代を生きる〉 京都大学こころの未来研究センター 広井良典教授㊤2021年9月25日

  • 地球の有限性に向き合い、持続可能な発展を目指す

 経済の拡大・成長が行き詰まりを見せる現代にあって、どのような思想の転換が求められているのか。「有限性」をテーマに未来を展望する、京都大学こころの未来研究センターの広井良典教授へのインタビューを、上下2回にわたり掲載する。(聞き手=萩本秀樹、村上進)

 ――人口減少社会やポスト資本主義への洞察など、広井教授が深めてこられたテーマは、コロナ禍でさらに重要性を増しています。現在の危機をどのように見つめていますか。
  
 感染症とはそれだけで独立して存在する問題ではなく、世界の根本的な問題が一つの現象として生じたものであることが、改めて明確になったと思います。
 具体的にはまず、人間と生態系のバランスが崩れた結果として、感染症が頻発していることが、たびたび指摘されます。社会や文明の在り方を根本から改革しない限りは、たとえ一度は感染拡大が収まったとしても、感染症のパンデミックは繰り返すでしょう。
 
 もう一つ、コロナ禍によって顕在化した課題として、「一極集中型」社会の脆弱さを挙げたいと思います。東京のような大都市圏に人や企業が密集し、そこから地方に経済効果が波及するのが、今の日本社会の構造ですが、言うまでもなく“3密”が常態化し、感染症が容易に広がるのは、そうした大都市圏です。
 
 地方分散の必要性は、コロナ前から指摘されていたことでもあります。実際に、私たちの研究グループが2017年に公表した、日本社会の未来に関するAI(人工知能)を用いたシミュレーションでも、「地方分散型」への移行が持続可能な未来への分岐点になるとの結果が出ました。その内容が、コロナ禍で浮き彫りになった課題と大きく重なったことは、私たちにとっても驚きでした。

生き方の分散

 ――都市から地方という側面にとどまらず、生き方全体を含む「包括的な分散型社会」への転換を提唱されています。
  
 コロナ禍を踏まえて昨年からは、「ポストコロナ」の未来に向けてのシミュレーションも行い、本年2月に結果を公表しました。高齢人口や有効求人倍率といった従来の指標に、小規模拠点をつなぐ「サテライトオフィス」導入企業数のような、コロナ禍で社会的な価値が高まった指標を加えて、コロナ後の時代に望ましい社会の在り方を分析したものです。
 そこで示されたのが女性の活躍、男性の育児参加、テレワークやリモートワークの推進などの重要性でした。都市から地方といった「空間的」な意味での分散にとどまらず、働き方や住まい方、ひいては生き方を含む、人生のデザインともいえる「包括的」な分散型社会への移行が大切であることが分かりました。
 
 今、日本で最も出生率が低いのは東京です。東京に人が集まれば集まるほど、日本全体の出生率が下がってしまう現実があります。
 一方で地方は、出生率は比較的高くても、女性にとっての活躍の場が少ない。期待を抱いて東京にやって来ると、東京では、仕事と家庭を両立させるような環境は非常に限られている。結果的に出生率も下がっていくという、ある種の悪循環の中に日本は置かれているのです。
 
 しかし、女性の活躍の場が増えれば、地方から東京に出て行かなくてもよくなります。東京でも、仕事と家庭の両立が進めば、出生率も回復します。女性の活躍をきっかけに、ウィン・ウィン(相互利益)の好循環が築かれていきます。
 また、テレワークやリモートワーク、長期休暇も兼ねて地方で仕事をするワーケーションといった、多様な生き方が促進されることで、生活の質が高められます。都市と地方が互いに栄え、日本の人口も回復していくというようなスケールの大きな未来を、シミュレーションは示したのです。
 
 山登りに例えれば、戦後の日本は、経済成長や人口増加といった山頂に向かって、集団で1本の道を登っていた時代でした。いわば「単一ゴール・集中型」の社会です。しかし、多様な人生100年時代にあって、画一的な経済発展モデルはもう成り立ちません。
 ただ、山頂に立てば視界は360度開かれているように、包括的な分散型社会は、それぞれが自分の好きな道を選び、登り下りができる社会です。単一ゴール・集中型ではなく、多様な生き方を促進することは、各人の創造性を発揮させ、結果として、経済成長や持続可能性にもプラスになると思うのです。

生命中心の経済

 ――成長一辺倒の画一的な経済モデルに代わる、「生命中心」の経済を提唱されています。
  
 17世紀にヨーロッパで科学革命が起こり、今日の私たちが「科学」と呼ぶものが生まれました。それ以降、「物質」「エネルギー」「情報」が普及していきましたが、それらはもう成熟段階に入っており、次なる社会コンセプトが見え始めている。それが「生命」であるというのが私の理解です。
 ここでいう生命は、生命科学という狭い意味にとどまらず、英語の「ライフ」のことです。ライフは、人生や生活を指します。また、地球の生態系や生物多様性のような広い意味での生命も含まれます。
 
 この生命を軸に、「生命関連産業」というものを考えると、少なくとも五つ――①健康・医療、②環境(再生可能エネルギーを含む)、③生活・福祉、④農業、⑤文化という分野があります。
 いずれも、生命に深く関連した経済活動の領域であり、こうした分野を発展させていくことが、ポストコロナの時代に重要になると考えます。
 
 生命関連産業は、比較的小規模で、地域に密着したローカルな性格が強いことに気が付くと思います。地域再生に寄与する効果が見込まれますが、一方で、そうした小規模でローカルな産業が、現実に経済を回せるのかという疑問が生じるのも、当然です。
 しかし、実は日本では、サービス業をはじめとする第3次産業が、雇用の70%を占めています。製造業などの第2次は25%、農業などの第1次は4、5%となっています。
 地方を活性化するというと、大きな工場ができて、何百人、何千人の雇用が一気に生まれるという製造業的なモデルで考えがちですが、現実には、すでに第3次産業が大半を占め、小さな産業が積み重なって経済が回っているのです。そういった視点や発想の転換が必要であると思います。
 
 コロナ禍の中で、国家の経済成長というマクロの視点だけでなく、生命の充実や幸福度を高めていくことを目指す、ミクロな視点に立った経済構造が求められているといえます。

創造性の発揮

 ――生命関連産業への転換は、資本主義の暴走を食い止めるという視点もあると思います。現実に資本主義が行き渡った生活の中にあって、いかに生命中心の社会へと移行することができるでしょうか。
  
 経済思想家の斎藤幸平さんが書いた『人新世の「資本論」』が昨今、話題になっています。マルクスの思想の本質に立ち返り、資本主義に代わって「脱成長」を訴える内容ですが、こうした書籍が大反響を起こすこと自体、時代の変化を象徴する例だと思います。
 
 私自身の「ポスト資本主義」の構想には、三つの柱があります。市場経済、コミュニティー、政府であり、それぞれ、「私」「共」「公」という領域に言い換えられます。
 斎藤さんは「コモン=共」の再生を軸に論を展開していますが、私は「私」と「公」も合わせた三つが全て重要で、どれ一つ欠けてもいけないと考えます。
 
 私の理解では、市場経済そのものは古代から人間社会に存在した、つまり、資本主義の誕生よりもはるかに昔からあったものであり、二つはイコールではありません。むしろ、市場経済に「限りない拡大・成長への志向」がプラスされたものが資本主義であるとすれば、その拡大・成長路線が成り立たなくなっているのは、今日の気候変動を見ても明らかです。
 
 その意味で、私は大きくいえば「脱成長」の立場であるといえますが、ただ経済成長をやみくもに否定するつもりはありません。たとえばGDP(国内総生産)といった量的拡大を唯一絶対の目標にするような在り方ではなく、「持続可能な発展」「定常化社会」を目指すという考えです。
 「一本道」を皆で登るのではなく、一人一人が創造性を発揮する。そうすることで、結果的に、持続可能な発展ができることもあるのではないでしょうか。

死の意味を問う

 ――近著『無と意識の人類史』では、そうした持続可能な発展、ポスト資本主義の人類の未来について、「有限性」をテーマに論じられています。
  
 現代は二つの有限性に、根本的なレベルで向き合っている時代だと考えます。
 
 一つは、すでに申し上げている「地球環境の有限性」です。環境や資源が有限であるという事実を直視し、いかに生きていくかが人類に問われています。
 そしてもう一つは、「生の有限性」です。近年、人間の寿命は無限に延ばせるといった“現代版「不老不死」”ともいえるような議論や、脳内の情報を全てコンピューターに入れ、移すことで意識を永続化できるといった議論が真面目に行われています。
 
 全てを否定するわけではないですが、私には、身体や意識を永続化させることが人間を本当に幸せにするかどうか、疑問です。
 そこには、資本主義のように無限の拡大を目指す思想が根底にあるように映るのですが、むしろ私は、人間の一生は有限であることを、積極的に捉えるべきだと考えています。
 一人一人の人生は有限であっても、無数の世代間のつながりの中で、人間がつくる価値や文化などは無限に広がっていきます。むしろ、物質的な有限性を認識するからこそ、有限にとどまらない無限の価値を創造していくことができるとさえいえます。
 
 人間は誰もがいつかは死ぬ一方で、死を受け入れることは簡単ではありません。だからこそ、「死」というものの意味を自分のものにできれば、生きていくことの意味やエネルギーにつなげていけるのではないか。そうした思いで、今も「生の有限性」というテーマの探求途上にいます。

「物質的価値」から「精神的価値」へ

 ――気候変動やコロナ禍の中で、私たちはまさに「地球環境の有限性」「生の有限性」に直面しています。広井教授は、人類が精神革命の中で、新たな発展と生存の道への転換を図ってきたと言われています。
  
 人類は人口と経済の「拡大・成長」「成熟」「定常化」というサイクルを3度繰り返し、現代は「第3の定常化」への移行期にいるというのが、私の考えです(注=図「人類史における拡大・成長と定常化のサイクル」を参照)。
 
 第1のサイクルでは、約5万年前に起きた「心のビッグバン」を経て、「第1の定常化」に移行したと考えられます。この頃、洞窟壁画のような絵画や装飾品、芸術的な縄文土器などが一気に現れました。それらは生活に必要な実用性を超え、人間の“心”の充実に価値を見いだしたと見ることができ、自然信仰を軸とした宗教の原初的な形態が大きく関わったと考えられます。
 
 また、第2のサイクルにおいては、ドイツの哲学者ヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊東俊太郎が「精神革命」と呼んだ紀元前5世紀ごろが、「第2の定常化」への移行期となりました。この時期、インドでは釈尊の仏教、中国では儒教や老荘思想、ギリシャではソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学、中東ではキリスト教やイスラムの原型である旧約思想など、現在に続く普遍宗教・思想が、“同時多発的”に起こりました。
 
 次いで、近代化によって第3のサイクルが始まります。市場化、産業化、情報化・金融化の中で、人類は、地球資源を際限なく大量消費してきました。そして今、私たちは「第3の定常化」への移行期に立っていると考えています。
 
 第1、第2のサイクルを見て分かるのは、拡大・成長から成熟、そして定常化への移行期は、進歩が止まったり停滞したりするのではなく、むしろ、文化的にも極めて創造的な「イノベーションの時代」であったということです。
 
 特に紀元前5世紀の「枢軸時代・精神革命」は、森林の減少といった地球環境や資源の限界にぶつかり、「物質的な量的拡大」から「精神的・文化的発展」へ、舵を切った時代であったといえます。
 資源が枯渇する時代というのは、争いが起こりやすい状況です。その中で、生存のために発展の方向を切り替えたといえますし、それは何かを我慢するという消極的な転換ではなくて、新たな発展の在り方に、喜びやプラスの価値を見いだす転換であったのです。
 
 仏教をはじめとする普遍宗教・思想は、まさにそうした背景の中で生まれ、個人という領域を超越し、社会全体の文化的な発展と成熟を支えてきました。一方で、現代社会に至っては、既成の思想や宗教的価値観が対立し、分断を引き起こしていることも事実です。
 
 その意味で、「第3の定常化」への移行期である今こそ、「心のビッグバン」や「枢軸時代・精神革命」に匹敵するような、新しい思想が誕生する必要があるのではないでしょうか。既成の価値観の分断を超える新たな思想という観点で、私は「地球倫理」というものがキーワードになるのではないかと考えています。
 (㊦は26日付に掲載予定)

 <プロフィル>
 ひろい・よしのり 京都大学こころの未来研究センター教授。1961年、岡山県生まれ。東京大学・同大学院修士課程修了後、厚生省(当時)勤務、千葉大学法経学部教授等を経て、2016年から現職。専門は社会保障や環境、医療・福祉、都市・地域に関する政策的研究から、ケア、死生観などを巡る哲学的考察まで幅広い。『コミュニティを問いなおす』で大佛次郎論壇賞受賞。その他に『定常型社会』『ポスト資本主義』『人口減少社会という希望』『無と意識の人類史』など著書多数。

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