毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

ソフト・パワーの時代と哲学

2021年09月24日 | 妙法

池田先生のハーバード大学講演30周年 1991年9月26日「ソフト・パワーの時代と哲学」2021年9月24日

分断から調和を築くために―
池田博士が唱える内発の力の薫発を
ラングリー博士
ハーバード大学ケネディ政治大学院のウィナー講堂で池田先生が講演(1991年9月26日)。先生は93年9月、「21世紀文明と大乗仏教」と題し、同大学で2度目の講演を行っている
ハーバード大学ケネディ政治大学院のウィナー講堂で池田先生が講演(1991年9月26日)。先生は93年9月、「21世紀文明と大乗仏教」と題し、同大学で2度目の講演を行っている

 池田大作先生が1991年9月26日に米ハーバード大学で「ソフト・パワーの時代と哲学」と題して講演を行ってから、あさって26日で30周年となる。
 講演の2年前の89年にベルリンの壁が崩壊し、米ソ首脳が冷戦終結を宣言。激動の時代にあって、軍事力や権力など外圧的なハード・パワーよりも、知識や文化など、相手を魅了して行動を促すソフト・パワーに光が当たり始めていた。これらの概念を提唱した同大学のジョセフ・ナイ博士らから池田先生に招聘状が寄せられ、同講演が実現した。
 先生は講演で、人間の精神性や宗教性に根差した哲学によって、内発の力、自己規律の心を育むことの重要性に言及。異文化の衝突等に直面した時に忍耐や熟慮を重ねることで、良心の内発的な働きが鍛え上げられ、人々を分断する悪を最小限度に封じ込めることができると訴えた。
 今回、3人の識者がこの講演の現代的意義を語った。
 マサチューセッツ大学ボストン校名誉教授のウィンストン・ラングリー博士は、講演で言及された「縁起」の思想に触れ、あらゆるものとの関係性を見いだし、人々を結ぶ池田先生の行動について述べた(2面に全文を掲載)。
 ジョージ・メイソン大学のスーザン・アレン准教授は「内発的な力が育まれた個人が世界を変えゆく時代が今、希求されている」と強調する(後日掲載)。
 池田国際対話センターのケビン・マー所長は、講演の柱である「対話」を、さまざまな形で実践する同センターの活動などを紹介している(後日掲載)。
 分断が世界の課題となる今、「内発の力」に解決の方途を探った同講演の持つ価値は、いやまして大きい。

 

 

ハーバード大学講演30周年に寄せて① 米マサチューセッツ大学ボストン校 ラングリー名誉教授2021年9月24日

  • 世界を結ぶためには人類の“全て”を考えねばならない――池田博士はその信念で行動

 私たちは今、人類の歴史の節目・岐路に立っているのかもしれません。強大な軍事力を背景にした“新しい冷戦”が始まろうとしているからです。
 
 軍事などの「ハード・パワー」が台頭すると、自己規律や人間関係を育む内発的な力が弱まるものです。そうなると、“対話”は、自分自身を省みるものではなく、他者に屈辱を与えるものになってしまい、共存ではなく分断が進んでしまいます。こうした現状にあって、池田博士が1991年の講演で言及された“内発の力を薫発する重要性”を意識することには大きな意義があります。
 
 池田博士の語る縁起の思想では、あらゆる物事が関係性の中で存在することが主張されています。人間も、自分一人ではなく、複数のつながりの中に存在し、他者も環境も人間の“生”に不可欠と考えるのです。
 
 縁起の思想に基づけば、人間は一人で未来を追求することはできず、共に手を取り合わなければならないことを思い知らされます。この気づきが、分断から調和を導く源泉になります。
 
 自己を大きな関係性の中に位置づけ、内省していけば、人間の潜在的な豊かさが発揮され、個人、生活、社会のあらゆる分野に波及していくでしょう。
 
 そうした中で浮かび上がるのが対話の重要性です。対話は人間の交流を活性化し、自分と他者の共通性を発見する一歩です。個々人の共通性を発見することが、国や社会を形作る礎となります。
 
 また、衝突に対処するための自己規律も重要です。池田博士は講演で、高い自己規律の一例として、内省の末に武士道が形成された江戸時代の日本が、犯罪等が少なく社会が安定していたことに言及されています。

対話センターの取り組みの意義
池田国際対話センターの文明間フォーラムに出席したラングリー博士。参加者との対話に花を咲かせた(2018年11月)
池田国際対話センターの文明間フォーラムに出席したラングリー博士。参加者との対話に花を咲かせた(2018年11月)

 今秋、イギリスで国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)が開かれます。例年、この会議では議論や対話によって大きな成果が得られています。内発の力や規律の精神が、国際会議で実践されている好例でしょう。
 
 私が長年にわたって学生と共に学び、研究を行うボストンで、広く対話活動を推進するのが池田国際対話センターであり、その取り組みの意義は大きいと感じます。
 
 ボストンは、一流大学が集まった学術の中心地であり、世界中から訪れた学生が暮らしています。池田博士がこの場所にセンターを創立されたのは、青年のリーダーシップを育むことを重んじられる故でしょう。加えて、ボストンは、世界を舞台に活動するNGOと社会との交流の場としても機能しています。
 
 このような知的資本が集積する場所で、相互の関わりが増えていけば、「ソフト・パワー」の普及に重要な役割を果たすことができるはずです。
 
 対話センターが、キリスト教文化が色濃いアメリカの地で、仏教の精神を基礎に置いて活動を続けていること、また、イデオロギーにとらわれず、人間主義を掲げて行動する池田博士の哲学が、センターの在り方に反映されていることも特筆に値します。対話センターの今後の活動に、期待します。

印象的な出会い
ラングリー博士(左から2人目)と握手を交わす池田先生。マサチューセッツ大学ボストン校から先生に、300番目となる名誉学術称号が贈られた授与式の席上、博士との出会いを結んだ(2010年11月、創価学会恩師記念会館で)
ラングリー博士(左から2人目)と握手を交わす池田先生。マサチューセッツ大学ボストン校から先生に、300番目となる名誉学術称号が贈られた授与式の席上、博士との出会いを結んだ(2010年11月、創価学会恩師記念会館で)

 最後に、池田博士の振る舞いに感銘した点をお伝えしたいと思います。博士はどのような国や地域を訪問された際も、その土地の歴史から話を始められます。これは、どのような地域であっても、固有の魅力を有し、価値があり、互いに関係していることを物語っています。ローカルとグローバルをつなげ、豊かな関係性を結び合う言動なのです。
 
 私が東京でお会いした時、池田博士は周囲の人々がリラックスできるように語り掛け、発言しやすいように振る舞うなど、こまやかな気遣いを見せておられたことが大変に印象的でした。
 
 地域や人々がそれぞれで独立するのではなく、全てが結び付いている調和した世界を築くには、人類の“全て”を考慮に入れなければならないとの信念を、自ら実践されているのだと感じました。あらゆるものとの関係性を見いだしていく内発的な姿勢こそ、博士から学ぶべきことではないでしょうか。

プロフィル

 ウィンストン・ラングリー 米ハワード大学で国際関係論の博士号を取得。マサチューセッツ大学ボストン校の学事長・教務担当副学長を歴任。2010年11月にモトリー学長と共に来日し、池田先生に「名誉人文学博士号」を授与した。現在は同校の名誉教授で、ジョン・W・マコーマック大学院のシニアフェローを務める。国連の開発途上国への援助の在り方を経済、社会、人権の観点から研究。女性の権利の研究にも実績がある。近著は、『WAR BETWEEN US AND CHINA』(邦訳は未刊)。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山口開拓指導〈上〉」

2021年09月24日 | 妙法

第9回「山口開拓指導〈上〉」 “草の根”を貫いたところが勝つ2021年9月24日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉 
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【拡大の原動力】
一、勝利への揺るぎなき一念
一、祈りを合わせる
一、電光石火のスピード
(「随筆 我らの勝利の大道」〈未来を開く青年大会㊤〉から)
山口県萩市にある松下村塾の史跡を視察する池田先生(1964年8月27日)
山口県萩市にある松下村塾の史跡を視察する池田先生(1964年8月27日)
「晋作の如く戦うか」

 「大阪の戦い」を勝ち抜いた翌月の1956年(昭和31年)8月、全国の新支部結成大会が開催された。
 この月、学会の支部数は、それまでの16支部から倍増。池田大作先生が陣頭指揮を執った「札幌・夏の陣」や「大阪の戦い」を経て、第2代会長・戸田城聖先生の生涯の願業である75万世帯の達成へ、大きな飛躍を遂げたのである。
 9月5日、戸田先生と池田先生は、学会本部の会長室で、日本地図を広げながら、広布の展望を語り合った。地図には各県ごとの会員世帯数が書かれていた。地域によって大きなバラツキがあった。東京は10万、関西は6万を超えていたのに対して、山口県は430世帯。戸田先生は中国広布の未来を案じた。そして、愛弟子にこう言明した。
 「ひとつ山口県で、指導・折伏の旋風を起こしてみないか」
 池田先生は、間髪を入れず答えた。
 「はい、やらせていただきます」
 この年は、明治維新の先覚者・吉田松陰が松下村塾で講義を始めた年から、ちょうど100周年に当たっていた。池田先生は、日記に認めている。「来月より、山口県、全面折伏の指示あり。小生、総司令……。義経の如く、晋作の如く戦うか。歴史に残る法戦」(『若き日の日記』、1956年9月5日)
 「晋作」とは、松陰の弟子・高杉晋作。戸田先生が「会ってみたい」と語っていた風雲児である。
 池田先生は、山口に縁故のある同志を派遣メンバーとして募り、拡大の計画を綿密に練った。「山陽方面の派遣闘争日程を決める」「歴史的、先駆の闘争だ。誇り高き、前進を」(同、同年10月1日)
 滞在費を工面するのも大変な中、全国26支部から派遣された同志は、山口広布の「開拓」の使命に燃えて活動を展開していった。

【「若き日の日記」1956年(昭和31年)12月23日から】
平坦な道を悠々と歩むより、 
嶮しき山を登ろう。革命児は。
1984年10月21日、池田先生は2万人の山口記念文化祭に出席し、同志の奮闘をたたえた(山口県スポーツ文化センターで)。その3日後、旧・岩国文化会館での自由勤行会で山口開拓指導について触れ、「永遠不滅なるものは妙法のみである。永遠に、生命を飾りゆくものこそ信心」と語った
1984年10月21日、池田先生は2万人の山口記念文化祭に出席し、同志の奮闘をたたえた(山口県スポーツ文化センターで)。その3日後、旧・岩国文化会館での自由勤行会で山口開拓指導について触れ、「永遠不滅なるものは妙法のみである。永遠に、生命を飾りゆくものこそ信心」と語った
魂を揺さぶる励まし

 先生の山口入りは、1956年(昭和31年)10月から翌年1月までの間に3度。それぞれの訪問に、明確な意義を定めた。1回目――現地の同志と心を合わせ、闘争の火ぶたを切る。2回目――組織の勢いをつける。3回目――拡大をし抜いて勝利を決める、である。
 池田先生の1回目の山口入りは、10月9日から18日の10日間だった。9日の早朝、先生は山口・下関駅に降り立った。
 下関の拠点に到着すると、居並ぶ地元の同志や、派遣メンバーと祈りを合わせ、御書の「四信五品抄」を拝読した。山口開拓指導でも、「大阪の戦い」と同様、「祈り」と「御書」を根幹とした勝利のリズムを徹底したのである。
 さらに、勝利の方程式として先生が示したのは、“中心者に呼吸を合わせる”ということだった。
 防府では、なかなか対話が実らない状況が続いた。先生は下関で指揮を執っていたが、派遣メンバーは防府にとどまって対話を続けた。“下関に移動する時間を、対話に使った方が効率が良い”と考えていた。
 先生は防府を訪れた折、派遣メンバーを諭した。
 「君たちは、なぜ下関に来ないんだい。私は折伏の師匠である戸田先生の名代として指揮を執っている。その中心に呼吸が合わなければ、折伏はできないよ」
 物事を効率良く進めることは大切だ。だが、それだけで広宣流布が進むわけではない。「中心者に呼吸を合わせる」とは、自らの境涯を広げることである。先生は、派遣メンバーの団結できない“一念の壁”を破ろうとしたのである。
 山口に滞在中、先生は県下7都市を転戦しながら、一人一人に徹底して励ましを送り続けた。その激励は、“幸福にせずにはおくものか”との、真心と執念に満ちていた。
 10月18日、岩国で弘教に励んでいた仙台支部の一人の派遣メンバーは、先生を乗せた列車が岩国駅を通ることを聞いた。この日は、先生が1回目の山口入りを終え、宇部から関西へと向かうタイミングだった。
 列車が岩国駅で停車すると、先生はホームに降りた。派遣メンバーが、目標である5世帯の弘教が実った喜びを報告すると、先生は「ご苦労さま。本当にご苦労さま」と優しく包み込むように励ましを送った。列車に戻った先生は、岩国駅に集った友たちの姿が見えなくなるまで手を振った。一瞬でも、一言しか声を掛けられなくとも、先生は友との出会いを大切にし、真心の絆を結んでいった。
 先生は強調する。
 「日の当たらないところまで光を当てて、あらゆる人を味方にしながら、新しい道を切り開く。そうやって勝利してきたのが、学会の歴史である」
 先生が、再び山口に入ったのは11月15日。2回目の山口滞在は、21日までの7日間。貴重な時間を無駄にできない。電光石火で動き、激励に次ぐ激励を重ねていった。

池田先生が認(したた)めた書「山陽広布の黎明(れいめい)の聖鐘(かね)を打とう」
池田先生が認(したた)めた書「山陽広布の黎明(れいめい)の聖鐘(かね)を打とう」
弟子よ偉大であれ

 会える人だけでなく、会えない人にも励ましを――先生は山口開拓指導で、ペンを走らせ、筆を躍らせた。
 徳山市(現・周南市)の拠点に、広島からの派遣メンバーがやって来た。婦人たちは、わずかな縁をたどり必死に対話を繰り広げていた。先生は、さまざまな状況を聞くと、留守を守る夫に、はがきを書いた。
 「留守、何かと不自由と存じますが、よろしく頼みます。使命を果し早急に帰宅する様 申し居きました」
 別の友には、こう記した。
 「お葉書で失礼致します。奥様 元気で徳山にて頑張って居られます……山口の廣布の夜明です」
 先生は、目の前にいない同志にも心を配り、感謝を述べた。
 「山陽広布の黎明の聖鐘を打とう」――19日には、墨痕鮮やかに認めた。
 この揮毫を受け取ったのは、高森(現・岩国市)の地で結核と闘いながら対話に奮闘する女性だった。「高森の人へ」との伝言が添えられていた。
 20日、先生は萩市に足を延ばした。渾身の激励の合間を縫って、萩城址や松下村塾を訪れた。
 明治維新の歴史に触れながら、先生は同志に語っている。
 「吉田松陰だけが偉大であったのではない。弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。戸田先生が、どんなに偉大でも、弟子のわれわれがしっかりしなければ、なんにもならない」
 翌年1月、先生は3回目の山口入りを果たす。先生自らが、弟子の模範を示し、山口県下の世帯数は、4カ月前から約10倍の4073世帯へと大拡大を遂げたのである。
 吉田松陰は、「草莽崛起(民衆の決起)」を訴えた。山口開拓指導は、自他共の幸福のために、庶民が立ち上がった歴史である。
 「草莽崛起」の思想を通し、先生は中国方面の同志に強調した。
 「民衆とともに進んだところが勝つ。『草の根』の闘争を貫いたところが勝つ」
 「『草の根の戦い』は、現実に根を張っているゆえに地味である。たいへんである。つらいことや、ときには、つまらなく思うこともあるかもしれない。
 しかし、『草の根』の戦いがいちばん強く、いちばん尊いのである。これをやりぬいているから、学会は強い。学会は負けない」

日本最大のカルスト台地・秋吉台を池田先生が撮影。黄金のススキが山口の大地に輝く(1984年10月)
日本最大のカルスト台地・秋吉台を池田先生が撮影。黄金のススキが山口の大地に輝く(1984年10月)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする