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阪神・淡路大震災2

2021年09月19日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第12回 阪神・淡路大震災2021年9月19日

 
空と海、神戸の街が陽光に輝く。手前左の大きな建物が兵庫池田文化会館。阪神・淡路大震災の時、救援センターに。周辺の道路は無数のひび割れが入り、会館の玄関前の歩道は地盤沈下を起こしたが、建物はびくともしなかった。厳然とそびえ立つ会館の姿は、兵庫の同志の心を鼓舞した(10日、兵庫支局・帰山記者撮影)
空と海、神戸の街が陽光に輝く。手前左の大きな建物が兵庫池田文化会館。阪神・淡路大震災の時、救援センターに。周辺の道路は無数のひび割れが入り、会館の玄関前の歩道は地盤沈下を起こしたが、建物はびくともしなかった。厳然とそびえ立つ会館の姿は、兵庫の同志の心を鼓舞した(10日、兵庫支局・帰山記者撮影)

 ハワイ大学の平和研究所と学術機関「東西センター」の招聘を受け、1995年1月21日、池田大作先生は日本からハワイへ旅立つ予定だった。
 世界青年平和文化祭、SGI(創価学会インタナショナル)総会など、重要行事が控えていた。
 その4日前――1月17日の午前5時46分、阪神・淡路大震災が起こった。先生は、ハワイの全行程のキャンセルも考えた。
 しかし、1月26日には、ハワイ大学の訪問と東西センターの講演が予定されていた。先生の訪問に合わせ、欧州やアジアの大学関係者が集うことになっていた。
 変更できるスケジュールは、全て変更した。あと1日、もう1日と出発を延期し、先生は救援活動への激励に全力を注いだ。

 震災が発生した17日の午前7時半ごろ、学会本部では先生の言葉が徹底された。――全力で救援を。考えつく、全てのことを。
 同8時、東京と関西の両方に災害対策本部が設置。同9時、東西の対策本部に、ドクター部、白樺会・白樺グループによる「救急医療班」が結成された。
 先生からのお見舞いが逐次、被災された方々に伝えられた。先生はさらに、関西へ伝言を送った。
 「リーダーが滅入ってはいけない。社会の現象なんだから負けてはいけない」
 「最善を尽くし、何でもしてあげてください」
 時間の経過とともに、被害の全容が明らかになっていく。その甚大さに、多くの人が気を落とす中、関西の同志は心を奮い立たせ、救援活動に走った。
 当時、学会の会館がなかった兵庫区。個人会場が災害対策本部になった。家主は、近くの電柱に「創価学会救援本部」との張り紙をした。午前11時には、その救援本部に、三田市の同志から大量のおにぎりが届いた。
 午後10時ごろ、救援物資を乗せた艀が大阪港を出発した。艀は、停泊中の船と陸の間を、乗客や貨物を乗せて運ぶ小舟である。問い合わせた船舶会社の船は全て出払っており、艀をチャーターすることになった。
 大阪港文化会館に集まった大量の物資を、壮年・男子部が5時間かけて積み込んだ。数十人のメンバーが、そのまま艀に乗った。午後11時半、神戸港に到着。物資を降ろし、大阪港に戻ると、時計の針は午前4時を回っていた。
 “川を越えたら一切、愚痴は言うな”――尼崎の青年部は、それを合言葉に、尼崎から兵庫県東部を流れる武庫川を越え、神戸の被災地へ向かった。

 先生がハワイへ出発したのは、1月25日の深夜。その折、「子どもたちの教育は、不自由していないだろうか」と。関西の対策本部は即座に反応し、兵庫県や神戸市に教育用品を寄贈した。
 ハワイに到着した先生は26日、東西センターで講演。翌27日、アメリカ最高会議で、関西への思いを語った。
 「わが偉大なる関西の友は、自分のことをさしおいてまで、人々のもとに足を運び、激励を続けている」
 「人の面倒をみた人、友を励まし続けた人。その人には、だれもかなわない」

 

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ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第12回 阪神・淡路大震災(1面から続く)2021年9月19日

フル回転した真心のネットワーク
池田先生が長田文化会館を初訪問(2000年2月29日)。居合わせた友に励ましを送る。先生は「あまりにも 健気な長田の 家族かな 生々世々に 諸天よ護れと」など3首の和歌を詠んだ
池田先生が長田文化会館を初訪問(2000年2月29日)。居合わせた友に励ましを送る。先生は「あまりにも 健気な長田の 家族かな 生々世々に 諸天よ護れと」など3首の和歌を詠んだ
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 ハワイ訪問4日目となる1995年1月28日、世界青年平和文化祭が行われた。
 創価合唱団が「ポリネシアンメドレー」を歌い終わると、舞台は関西吹奏楽団に移った。1曲目は「南太平洋メドレー」。2曲目に入ると、関西の交流団が立ち上がった。関西の愛唱歌「常勝の空」の演奏が始まった。
  
 〽今再びの 陣列に
  君と我とは 久遠より……
  
 関西吹奏楽団と交流団のメンバーは、池田先生の方を向いた。先生は白い帽子を何度も、力強く回した。師の姿は、関西の友にとって、“関西、負けるな!”とのエールにほかならなかった。
  
 阪神・淡路大震災が発生した1月17日から22日までの6日間で、学会は22万本の飲料水、65万個のおにぎり、50万個のパンを用意した。毛布7万5千枚、紙おむつ4万人分、粉ミルク5500缶、医療品2万5千箱なども準備した。
 これらの物資を、ヘリコプターやチャーター船、トラック、バイクなどで輸送した。都市機能が停止する中、「陸」「海」「空」と、あらゆる方向から迅速な救援活動を展開した。
 震災時、兵庫県知事を務めていた故・貝原俊民氏。生前、「私がいた知事公舎に、午前6時15分頃だったか、一番早く駆け付けたのは、地元の学会壮年部の方だった。私のことまで心配していただいていることに感激しました」との証言を残している。
 信仰の有無など関係ない。同じ人間として、苦難にある人に救援の手を差し伸べる――関西の友の救援活動は、池田先生の心そのものだった。
  
 95年2月2日、聖教新聞で連載中だった小説『新・人間革命』第3巻「仏法西還」の章で、山本伸一が仏法の生死観を語る場面が描かれ始めた。
 4日付では、「広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない」と。
 2月2日、ハワイでの諸行事を終えた先生は、関西へ。4日、関西文化会館で行われた追善勤行法要。先生は、「悪い象に殺された場合は地獄等には堕ちない。悪知識に殺された場合は地獄等に堕ちる」との経文を通し、「震災等で亡くなられた場合も、悪象による場合と同じく、絶対に地獄に堕ちない」と訴えた。
 法要での師の励まし、小説に記された仏法の生死観は、関西の友の胸中に、大きな希望をともした。
 震災時、救急病院の看護師だった婦人。子どもたちを神戸講堂に避難させると、自らは病院へ向かった。“野戦病院”の様相を呈する状況の中で、看護に当たった。
 次々に襲い掛かる死の現実。心が押しつぶされそうになりながら、不眠不休で患者に寄り添い続けた。
 震災後、家族を故郷の宮崎に帰した。大変な時だからこそ、子どもたちと一緒にいたい。でも、患者のそばを離れるわけにはいかない。身が裂かれるようだった。
 “母親の私のことをどう思っているだろう”。不安が残った。震災から半年後、長女が書いた七夕の短冊に、婦人は目頭を熱くした。
 ――大きくなったら、お母さんのような看護師になりたい。
 患者に尽くす「白樺の心」は、子どもたちに伝わっていた。後年、長女は看護師に。長男は創価大学に学び、広布後継の道を歩む。次女は創価大学を卒業後、看護学校へ。現在、看護師として奮闘を重ねる。三女は関西創価高校で向学の青春を謳歌している。

 95年10月17日、「SGI総会」「21世紀兵庫希望総会」が、兵庫池田文化会館で晴れやかに開催された。
 このSGI総会は2日間にわたって行われ、被爆50年の広島の地で開催される予定だった。
 それが、1日目は広島で、2日目は兵庫で開かれることに。池田先生の提案だった。
 震災から9カ月、神戸の街にはまだ、がれきの粉塵が飛び、復興は緒に就いたばかりだった。先生は語った。
 「まだ車の渋滞がひどいのもわかっている。総会の運営も大変だ。しかし、懸命に立ち上がろうとしている、その神戸の地でやることに意味があるんだ」
 兵庫のリーダーは、SGI総会に合わせ、「21世紀 兵庫総会」の開催を企画した。先生は、「総会に『希望』の二文字を加えようよ」と提案を重ねた。
 震災から2カ月後、兵庫での座談会は、「希望座談会」との名称で行われた。兵庫の友は「希望」を語り合い、「希望」の力を持って、復興に立ち上がったのである。だからこそ、総会に「希望」の二文字が入ることは、何よりの喜びだった。
 17日の総会で、先生は強調した。
 「希望が力である。希望は『勇気』と『知恵』から生まれる。『知識』だけからは生まれない。そして信心とは『無限の希望』を生む知恵である。『永遠の希望』を生む知恵である」
  
 「湊川はどっち?」
 長田文化会館に駆け付けた友に、池田先生は尋ねた。2000年2月29日のことである。
 南北朝時代の武将・楠木正成と正行。親子の別れを描いた歌“大楠公”を、戸田先生はこよなく愛した。「父は兵庫に赴かん」(落合直文作詞)――父・正成が最期を遂げた戦が、「湊川の合戦」だった。
 湊川の方向を確認すると、ピアノで“大楠公”を弾いた。会館には、地元のメンバーが次々と集まってきていた。皆で勤行した後、先生は語った。
 「よくここまで復興されました。しかし、まだまだ、これからが大変でしょう。私も応援を続けます。一生涯、お題目を送ります。亡くなられた同志も、家族も、必ず広宣流布の陣列に元気に戻ってくることを確信してください」
 「どうか朗らかに! 朗らかな人には、誰もかなわない。そして忍耐をもって生き抜いていただきたい。一緒に人生を生きましょう! お元気で! 日本一の長田区です」
 その場にいた長田区の壮年。震災の時、自宅が全壊した。生き埋めの中、夫婦で「常勝の空」を歌い、死の恐怖と戦った。
 震災発生から2時間ほどの後、知人が助け出してくれた。壮年はすぐに、長田文化会館へ。会館の状況を確認すると、近隣の人たちの救助に走った。
 震災後、7回転居した。思い通りにいかない現実。じっと耐え、復興の歩みを続けてきた。
 壮年は少人数の語らいを大切にした。被災した一人一人の状況は異なるからだ。現在のコロナ禍でも、目の前の一人に、共に広布に立ち上がることを呼び掛ける。
 「『日本一の長田区』との先生の万感の思いに、生涯、応え続けていきます」。壮年は力を込めた。
  
 戦後最大の都市直下型地震。多くの建物が崩れる中で、決して壊れないものがあった。
 励まし合い、支え合う「人間の絆」である。
 “負けたらあかん!”との「不屈の魂」である。
 先生は関西の友の貢献をたたえている。
 「組織があったから動いたのではない。苦しんでいる方々の痛みを共にし、行動せずにはいられぬ『同苦の心』が、同志の胸に燃えていたからこそ、真心のネットワークがフル回転で働いたのだ」

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