わが魂に「勝利の旗」を掲げよ 不屈の獅子の精神で壁を破れ――ブルガリアの芸術史家 アクシニア・ジュロヴァ博士との語らい2022年1月8日
- 連載〈扉をひらく 池田先生の対話録Ⅲ〉第22回
「対談集の執筆作業は、あの長い困難な時代にあって、私の精神の支えとなりました」
そう語るのは、東欧屈指の芸術史家として著名なブルガリアのアクシニア・ジュロヴァ博士。ソフィア大学の教授を務め、東方キリスト教の文献学、図像学において画期的な業績を残してきた。
1999年、池田先生と博士は対談集『美しき獅子の魂』を編んでいる。
82年の出会い以来、二人は、シルクロードの文化交流やブルガリアとキリスト教、法華経とブルガリア写本などを巡って、活発な意見交換を続けてきた。
90年4月、来日したジュロヴァ博士を、池田先生は東京・信濃町の旧聖教新聞本社で迎えている。
「私は、池田会長と再会することを、ずっと願っておりました」
7年ぶりとなる再会の喜びを率直に伝える博士だが、その表情には苦渋がにじんでいた。
この時、ジュロヴァ博士の祖国ブルガリアは、動乱の渦中にあった。博士は父と共に批判の矢面に立たされていたのである。
池田先生は、温かくも力強く言葉を掛けた。
「ブルガリアのシンボルは“獅子”です。今は大変でも“獅子の国”らしく生き抜いてください」
じっと先生を見つめ、博士は繰り返しうなずく。
先生の言葉に熱がこもった。
「他人がどう考えているか、時代がどう見ているかは、永遠から見れば、小さいものです」
89年に東西冷戦が終結すると、共産主義国に民主化の波が押し寄せた。「ソ連に最も忠実な国」といわれていたブルガリアでは、同年11月、長きにわたった共産体制に終止符が打たれている。
内戦や為政者の処刑というような“流血”を伴って民主化を果たした国も少なくない中、ブルガリアでは平和裏の移行が実現した。
その立役者の一人がジュロヴァ博士の父であり、当時、軍の最高責任者を務めていたドブリ・ジュロフ将軍であった。第2次世界大戦では反ファシズムのレジスタンスとして活動し、死刑判決を5度も受けながら戦い抜いたブルガリアの英雄である。
ジュロフ将軍は国家元首を粘り強く説得し、ついに無血革命を成し遂げた。だが急激な体制変化で国内は混乱状態に陥り、物価は高騰。連日のようにデモが続いた。
民主化の英雄であるはずのジュロフ将軍に対しても、“旧体制派の人間”として猛烈な批判が浴びせられ、その矛先はジュロヴァ博士ら家族にまで及んでいた。
90年4月の博士と池田先生の会見は、その激動のさなかである。博士の凍てついた心を解かすかのように、先生は言葉を継いだ。
池田先生 人々には喜びを与え、自身は苦しみを引き受ける。そういう“根っこ”の存在の指導者がいるからこそ、人々の幸福の開花もあります。その意味で、祖国の未来を思う博士は、人間としての「勝利の旗」を魂に掲げた人です。時代は変わり、人の心は移ろう。それらを超えて、私が見つめているのは「人間」です。人間の「魂」です。長い歴史の上から、また永遠性の上から見なければ、本当の「勝者」は分かりません。
ジュロヴァ博士 励まされます。お話をうかがって、私はかつて池田会長も引いてくださった10世紀のブルガリアの人、プレズビッテ・コズマの言葉を思い出しました。「試練を受けねばならない。試練とか困難の時にこそ、民衆や神に祝福される指導者が現れるのだ」。嵐の中で人類のために戦っておられる池田会長こそ、この言葉通りの方と思っています。
池田先生 恐縮です。嵐を求め、嵐とともに進んでいくのが真実の指導者であり、人間であると私は決めています。
ふと、池田先生は、傍らのスタッフに「御書を持ってきて」と。
「御義口伝」の箇所を開き、先生はある一節を読み上げた。
「善悪一如なれば一心福とは云うなり所謂南無妙法蓮華経は一心福なり」(全790・新1100)
善と悪は一体であり、ある面からは善に見えても、別の面からは悪に見えることもある。
社会の評価もまた、絶え間なく揺れ動くものだ。だからこそ、そうした批判に屈せず、誇り高く生きてほしい――。御書を手に続く先生の激励に、博士は言葉を詰まらせた。
「私は今、感動してしまいまして、何と申し上げていいか分かりません……」
別れの瞬間まで先生は声を掛け続けている。
「お父さんを励ますのはあなたしかいません。最大の薬は娘の声です。声が愛情です」
車上の人となった博士の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
翌91年7月、ブルガリアに新たな憲法が制定された。東欧初となる民主的憲法であり、新たな時代の開幕を告げるものであった。
池田先生とジュロヴァ博士の対談は、99年に『美しき獅子の魂』(日本語版)として刊行された。
翌年に発刊されたブルガリア語版は、同国出版界最大のイベントで「最優秀出版物」に選ばれるなど反響を呼び、再版を重ねた。
ジュロヴァ博士は述懐する。
「幾度もの再版は偶然ではありませんでした。対談で論じたグローバル化に伴う弊害などの諸問題が、実際に起きたのです」
ブルガリアは2007年にEU加盟を果たすが、翌年のリーマンショックによる景気後退は欧州全体に暗い影を落としていた。先が見えない中、ジュロヴァ博士の周囲からは、池田先生との対談の継続を望む声が上がった。
往復書簡の形式で語らいが再開され、新対談は「大いなる人間復興への目覚め」(17年)として結実する。また、ブルガリア国内でベストセラーとなっていた最初の対談集『美しき獅子の魂』は、16年に3巻本(トインビー、ペッチェイ、ジュロヴァ対談)として再刊され、今に読み継がれる。
同対談集の冒頭では「獅子」について洞察が示されている。
古くから東西文明の十字路であり、大国から侵略の危機にさらされてきたブルガリアは、自らの誇りと勝利への決意を獅子に託し、国のシンボルとした。その一方、仏教においても獅子は迫害や困難に屈しない勇気の象徴であり、経典の随所に登場している。
同書に「獅子の魂」と冠した理由を、池田先生はこう語る。
「ブルガリアは『獅子の精神』をもって、長きにわたって他国の残虐な支配と戦い抜かれた。この不屈の歴史を、人類史に厳然と残すべきであると私は思ったのです」
ジュロヴァ博士は述べている。
「獅子はまた、ブルガリアと日本のシンボルであり、その咆哮は全世界に響き渡るのです」
いかなる時代や状況にあろうとも、民衆と共に生き、不屈の行動を貫く中に新たな扉は開かれる。
激動の嵐を勝ち越えた者が知る「獅子の魂」である。
【プロフィル】アクシニア・ドブレヴァ・ジュロヴァ 1942年生まれ。74年から84年までブルガリア科学アカデミーで研究に従事し、82年に博士号を取得。84年からソフィア大学教授に。同大学副学長、スラヴ・ビザンティン研究所所長、米エール大学客員教授などを歴任。スラヴ語の写本目録をはじめ、多くの論文・研究書がある。ブルガリア科学アカデミーとソフィア大学から聖キリル・メトディウス賞(82年)、偉大な功労十字勲章(89年、ドイツ連邦共和国)、ブルーリボン名誉称号(2007年、ソフィア大学)等、その功績がたたえられている。
【引用・参考文献】池田大作/アクシニア・ジュロヴァ著『美しき獅子の魂』東洋哲学研究所(『池田大作全集』第109巻所収)、「東洋学術研究」第56巻第1・2号、第60巻第1号(同)、『民衆こそ王者 池田大作とその時代11』潮出版社、田島高志著『ブルガリア駐在記』恒文社、『ブルガリアの歴史』高田有現/久原寛子訳・創土社、『シリーズ東欧革命②』緑風出版。