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21世紀は女性の世紀

2022年01月23日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第16回 21世紀は女性の世紀 ①折々の励まし2022年1月23日

  • 一心に戦う友を宣揚したい
「私が約束を果たします」

 草創の秋田支部の初代婦人部長だった伊藤哲子さん。ある時、数人のメンバーと一緒に、池田大作先生と散歩する機会があった。
 この激励は、戸田先生が伊藤さんを励まし、“神宮の外苑あたりを歩こう”と語ったことが始まりだった。外苑の散歩が実現する前に、恩師は逝去した。
 そのことを伊藤さんから聞いた池田先生は、「分かりました。私が必ず約束を果たします」と語り、散歩の時間を持ったのである。
 先生は学会歌「威風堂々の歌」を口ずさみながら語った。
 「戸田先生が言われた一言一言を、私はすべて実現します」
 池田先生の胸中には、いつも、どんな時も戸田先生がいる。小さなことでも、恩師が言われたことは全て実現する――。伊藤さんは「弟子の道を全うされる池田先生のお姿に、感動を禁じ得ませんでした」と述べている。
 先生は激務の合間を縫って、東北の地で懸命に広布に走る一女性に師弟の大切さを訴えた。

幸福への精進

 埼玉の茂木輝美さんは、静岡での池田先生との懇談を今も忘れない。
 「この中で、お父さんがいない人?」
 先生が問い掛けると、茂木さんはそっと手を挙げた。入会は1954年(昭和29年)。先に信心を始めた父・喜代作さんの勧めで、女子部の集いに参加したことがきっかけだった。その父が56年(同31年)に亡くなった。
 先生は「きょうから、私を父と思って、しっかり頑張りなさい」と。師の真心は、茂木さんが学会と共に進むことを誓う原点となった。
 先生は父を失った茂木さんを、折あるごとに励ましてきた。
 59年(同34年)3月4日、大宮支部会館(当時)で行われた会合の前に、「精進」との文字を染め抜いた袱紗を渡した。61年(同36年)8月22日には、書籍に「常に幸福え乃 精進を」と揮毫して贈った。
 「精進」――その言葉の意味を、茂木さんが深く心に刻んだのは、夫・磐さんと結婚してからのことだ。
 74年(同49年)、磐さんがくも膜下出血で倒れた。長男の和雄さんは2歳、長女の清美さんは1歳だった。
 緊張の糸が張り詰める中、宿命転換を懸けて学会活動に励んだ。78年(同53年)には支部婦人部長の任命を受けた。「母(志んさん)が子育てを手伝ってくれて……。義理の両親の介護もあり、母の支えがなければ、とても乗り越えることはできませんでした」
 磐さんは左半身にまひが残ったが、リハビリに励み、やがて車いすで地域を回るように。89年(平成元年)に亡くなるまで、自治会の理事を務めた。この年、先生の提案で埼玉文化会館に「茂木桜」が植樹された。毎年、満開の花を咲かせている。
 茂木さんは夫の後を継ぎ、28年間、自治会の理事として地域に貢献。市から表彰を受けた。現在、団地の自治会長として近隣との絆を育む。
 ――父がいたからこそ、信心に巡り合うことができた。
 ――師の励ましがあったからこそ、幸福の軌道を進むことができた。
 2人の“父”への感謝を胸に、茂木さんは「精進」の歩みを重ね続ける。

「素晴らしき人生を勝ち開いていかれることを、私と妻は祈る日々である」――創価の女性に励ましを送り続ける池田先生ご夫妻(2007年3月、八王子市の東京牧口記念会館で)
「素晴らしき人生を勝ち開いていかれることを、私と妻は祈る日々である」――創価の女性に励ましを送り続ける池田先生ご夫妻(2007年3月、八王子市の東京牧口記念会館で)
この船たしか

 1978年(昭和53年)6月30日、東京の立川文化会館へ、渡辺光子さんら5人の東久留米の婦人が向かった。この月、渡辺さんが婦人部長を務める支部では、204部の本紙の拡大を成し遂げていた。
 会館に到着して驚いた。駐車場に池田先生の姿が見えたからだ。5人は急ぎ足で、師のもとに駆け寄った。先生は持っていたカメラを向け、シャッターを切った。
 駐車場にござが敷かれ、“座談会”が始まった。「祖母が病気です」と語る婦人に、先生は御書の「転重軽受法門」の一節を拝し、信心の絶対の確信を語った。「不眠症で苦しんでいる年配者がいます」と報告する友には、袱紗を贈った。
 激励は続いた。「みんな、お昼はまだだろう」。近くの店からラーメンの出前を取ることになった。それを待つ間、「きょう完成したばかりの歌なんだ」と、自らが作詞・作曲した学生部歌「広布に走れ」を披露した。
 先生は歌詞に込めた思いを語り始めた。3番の「歴史を創るは この船たしか」について、「『この船』とは、創価学会のことなんだよ。学会についていけば絶対に間違いない。幸せになる」と強調した。
 当時、宗門僧らが師弟の分断を画策していた。先生は、小賢しい邪知の嵐などに、決して揺るがぬ正義の大船こそ学会であるということを、婦人たちの心に刻んだ。
 師から5人に、「お軽勘平グループ」との名が贈られた。渡辺さんは“なぜ、お軽・勘平なのか”が分からなかった。先生はその人を一瞬にして見抜くと、先輩から聞いていた。“ならば、私たちの姿を見て、何かを感じられたに違いない”
 「お軽」「勘平」は、浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」に登場する人物。夫・勘平が主君の仇討ちに参加するために、妻・お軽は尽くすが、ふとした誤解から勘平は追い詰められ、自ら命を絶つ。悲劇の物語である。
 「お軽勘平グループ」の名が意味するのは、お軽や勘平のようになれ、ということではない。むしろ逆だ。ちょっとした油断や隙から、人生を棒に振り、肝心な広布の“戦”に集うことができないようなことがあってはならない。渡辺さんは、師からの“戒め”と捉えた。
 だからこそ、どんな広布の戦いにも精いっぱい挑んだ。3人の子どもは、その母の姿を見てきた。長男・伸一さんは地区部長、次男・敏之さんは支部長、長女・礼子さんは地区女性部長として、広布の最前線を駆けている。

立川文化会館の駐車場で、東久留米の女性部員らに声を掛ける(1978年6月30日)。語らいの数日後、池田先生は語った。「あのようなけなげな人たちこそ、学会には大事なんだ」
立川文化会館の駐車場で、東久留米の女性部員らに声を掛ける(1978年6月30日)。語らいの数日後、池田先生は語った。「あのようなけなげな人たちこそ、学会には大事なんだ」
平和を祈り続ける

 ヨーロッパ中部から南東へのびるバルカン半島。この地に誕生した初のSGIメンバーは女性である。
 ヤスミナ・トゥンペイさん。イギリスの大学で精神医学を学んでいた時、仏法に巡り合った。1983年(昭和58年)、東欧広布の誓いに燃え、故郷のユーゴスラビアに戻る。
 2年後、彼女の自宅で、ユーゴスラビア初の総会が開催された。現在のセルビア、クロアチアなどから30人ほどのメンバーが集った。
 90年代の前半から、ユーゴスラビアは内戦の悲劇に見舞われる。民族感情のマグマが噴出する中、ヤスミナさんは、一日も早く平和が訪れることを祈り続けた。
 内戦が終結した翌年、ヤスミナさんの母・リリアナさんが亡くなった。葬儀は、住んでいたスロベニアで、初となる友人葬で行われた。
 葬儀場に、先生からの追悼の花束が届いた。ヤスミナさんは「先生は、たった一人のために、ここまで心を尽くされるんですね」と深い感銘を受けた。
 新世紀が開幕した2001年(平成13年)、ヤスミナさんはスロベニアSGIの初代支部長に就任する。心理療法士として働きながら、スロベニアの大地に妙法の種をまいた。
 03年(同15年)、同国の文芸誌に先生のインタビュー記事が掲載され、国営テレビがSGIの思想を報道した。その2年後、スロベニアSGIは文化団体として、法人認可を受けた。
 スロベニア広布の伸展を見届けるようにして、07年(同19年)、ヤスミナさんの生涯は幕を閉じた。
 同SGIの現在の支部長であるアニータ・プレゼリさんは、ヤスミナさんが信心に導いた一人である。

スウェーデン広布の一粒種

 「私はどこに行っても、その地に難攻不落の城を築く思いで戦っている。一人でもいい。私と同じ精神で戦おうという人を探している」
 池田先生がこう切り出したのは、1989年(平成元年)2月、学会の幹部が集まった会合でのこと。この後、先生は一人の女性に言及した。
 「スウェーデンの広宣流布を支えたのは、一人の女性なんだ」
 「上原鏡子さんという、鹿児島出身の女子部員です。『スウェーデンは、私一人で開いていきます』と言ってくれた」
 上原さんは33年(昭和8年)、鹿児島の指宿で生まれた。戦後、神戸で入会する。先生が第3代会長に就任した60年(同35年)、仕事の関係でスウェーデンに移った。
 62年(同37年)、先生は書籍に「冥益」と揮毫し、上原さんに贈った。翌63年(同38年)1月には、ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会で、上原さんを励ましている。
 この年、上原さんは「スカンジナビア地区」の責任者になる。スウェーデンに信心の喜びが広がると、同志の激励のため、西部の都市イエーテボリ、南部の都市マルメにも足を運んだ。
 スウェーデンで仏法の哲理を語り広げた上原さんだったが、体調を崩してしまう。79年(同54年)、鹿児島に戻り、生涯を閉じた。
 先生は上原さんをたたえた。
 「頼れる人もいない。言葉もそれほど上手ではない。しかし、彼女は掃除や皿洗いをしながら生活費を切り詰めて戦ったんだ。無名の、このような人々をこそ、私は励まし、宣揚したい」

ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会後、池田先生がメンバーと記念のカメラに。前列左端に写っているのが、スウェーデン広布の“一粒種”である上原鏡子さん(1963年1月、パリで)
ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会後、池田先生がメンバーと記念のカメラに。前列左端に写っているのが、スウェーデン広布の“一粒種”である上原鏡子さん(1963年1月、パリで)
文明史的な意味

 21世紀の幕が上がった2001年1月。先生は「生命の世紀へ 大いなる潮流」と題する提言を発表した。その中で次のように述べている。
 「二十一世紀における女性の存在の重みは、法律面や経済面での『解放』(それも大事ですが)をはるかに超えた、文明史的な意味をもっています」
 「それゆえ、二十一世紀が基調とすべき『生命の世紀』とは、『女性の世紀』の異名でもあるといえましょう」
 先生は「21世紀は女性の世紀」と繰り返し訴え、女性のエンパワーメント(内発的な力の開花)に尽くし、無数の励ましの松明をともしてきた。その明かりに照らされ、地涌の使命の舞を舞う女性が世界各地にいる。
 自分の宿命に負けないで、地道に誠実に、家庭や地域に幸福の灯をともす創価の女性の連帯は、「生命の世紀」を希望の光で照らしている。

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