輝きの瞬間〉 1月の広布史2022年1月5日
師弟という“縦糸”と同志の連帯という“横糸”によって織り成された民衆勝利の大絵巻が広宣流布の歴史である。新連載「輝きの瞬間」では、師弟の黄金の歴史を紹介する。今回は1月の広布史を掲載する。
「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、いっさい、君に任せるから、全部、引き受けてくれないか」
事業が暗礁に乗り上げ、絶体絶命の窮地に陥っていた戸田先生は、1951年1月6日、池田先生を自宅に招き、率直に語った。恩師は広宣流布の未来を見すえ、最も深く信頼する愛弟子に一切を託そうとしていた。
池田先生は答えた。
「(戸田)先生、決して、ご心配なさらないでください。私の一生は、先生に捧げて、悔いのない覚悟だけは、とうにできております」
そして、南北朝時代の武将・楠木正成が、子の正行に後事を託した故事に、創価の師弟の姿を重ね、その日の日記につづった。
「先生は、正成の如く、吾れは、正行の如くなり。奥様は、落涙。此の日の、感動、厳粛、感涙、使命、因縁、生き甲斐は、生涯、忘るることはない。後継者は、私であることが決まった」
池田先生は、“断じて、戸田先生に、次の会長になっていただく”と誓いを立て、祈りに祈り、阿修羅のごとく逆風の中を突き進んでいった。命を削って師匠を守り抜いた。
その後、事業の整理が劇的に進み、この年の5月3日、戸田先生は第2代会長に就任した。
26年後、77年の1月6日、結成間もない創価班の第1回総会が開催。この日に行うことを提案したのは、池田先生だった。戸田先生の後継者たる自覚を深めた歴史的な日に、学会厳護の気迫みなぎる創価班に、万感の期待を寄せたのである。
池田先生は席上、創価班に対し、「創価学会の未来万年にわたる盤石な基盤を構築することに一切の使命がある」と師子吼。以来、創価班は各地で、成長と勝利の実証を示してきた。
「1・6」は2012年、「創価班 師弟誓願の日」に制定。10周年の今この時、一人一人が史上最高の拡大をと誓う。
そこには白銀の世界が広がっていた。
1982年1月10日、池田先生は秋田に降り立った。第1次宗門事件で「東の秋田、西の大分」といわれるほど、秋田では宗門僧らが、聞くに堪えない創価学会への罵詈雑言を繰り返した。
前年の秋から本格的な「反転攻勢」を開始した先生は、「愛する秋田に必ず福徳爛漫の春を呼ぶのだ」と深く心に期していた。
待ち望んだ師匠の訪問に、出迎えた同志の喜びがはじけた。「雪の秋田指導」の始まりである。
空港から“戦い”は開始された。秋田文化会館(当時)までの途上、先生はメンバーを見つけては車から降り、同志と絆を強く結んだ。計9回、“街頭座談会”を行い、記念の写真に納まった。
県幹部会や懇談会など、先生の真剣勝負の激励が続いた。13日には、自由勤行会が行われ、2度にわたって記念撮影会も開かれた。正午過ぎ、前夜からの雪が降る中、先生はマイクを握った。
「この力強い、はつらつとした皆さんの姿こそ、あの『人間革命の歌』にある『吹雪に胸はり いざや征け』の心意気そのものです」
「皆さんの健闘と、大勝利を祝い、勝ち鬨をあげましょう!」
雪空に民衆勝利の凱歌が響き渡った。先生は後に、行事の成功を自宅で祈り、見守った友に「雪の秋田指導 栄光グループ」との名を贈った。
秋田をたつ前日の14日、第1回秋田県青年部総会が開催された。先生はスピーチの後、会場の出口付近で、高らかに宣言した。
「きょう、私は正式に語っておきます。自分が思うと思わざるとにかかわらず、諸君は池田門下生であると思っています。信頼しています!」
15日までの6日間の滞在で、先生は、約1万人の求道の友に激励を送った。会えなかった同志にも、励ましの手を差し伸べた。
今年は「雪の秋田指導」から40周年の節目。寒風に胸張る秋田の友の胸中に、広布飛躍への誓願がいや増して燃え上がる。
未来部は、池田先生の会長就任後、初めて結成された部だ。1964年6月1日、高等部と中等部の設置が発表され、7日に高等部が結成。学会は未来への飛翔を加速させていった。
翌65年、小説『人間革命』の連載が、聖教新聞元日号からスタート。2週間後の1月15日に、中等部の結成式が全国各地で行われた。中等部をはじめ未来部のメンバーは発足当初から、『人間革命』の研さんを通し、信心の土台を築いていった。
当時の『青少年白書』には、犯罪の低年齢化などが指摘されていた。青少年へ希望を届けることは、社会の課題だった。
先生は結成式の前日、「信心」「勉強」などの観点から五つの指針を贈った。この年の8月には、中等部の代表と記念のカメラに納まり、激励している。
御書講義や決意署名など、未来部員の成長を願い、先生は具体的な手を打った。その思いを、こう語った。
「すべては真剣さだよ。私は、二十一世紀のことを真剣に考えている。その時に、誰が広宣流布を、世界の平和を、担っていくのか。誰が二十一世紀に、本当の学会の精神を伝えていくのか。それは、今の高等部、中等部のメンバーに頼むしかないじゃないか」
21世紀を目前にした2000年4月、聖教新聞紙上で「希望対話」の連載が開始された。第1回で、先生は中等部への万感の思いを述べた。
「私は、中学生のみなさん全員が、晴ればれと『勝利』してもらいたい。『すばらしい日々だった!』と満足できる青春であってもらいたい。そのためなら、何だってしてあげたい」
友情や進路の悩み、いじめなど、さまざまなテーマで、先生は多感な中学生に渾身のエールを送った。師の言葉は、多くの友の心を鼓舞した。
21世紀の今、かつての中等部員たちが、先生の心をわが心として、後継の宝の友たちに励ましを送っている。
1957年7月3日、池田先生は事実無根の選挙違反容疑で逮捕・勾留された。「大阪事件」である。新たな民衆勢力の台頭を恐れる権力の策謀だった。
同年10月18日から裁判が始まった。先生は日記に記した。「友よ、次の勝利に、断固進もう。俺も、戦うぞ」
日本の司法制度では、起訴されてしまえば、無罪を勝ち取ることは困難を極める。担当の弁護士たちは、池田先生に「有罪は覚悟してほしい」と弱腰だった。
青年部出身の学会幹部たちは憤りを覚えた。彼らは大阪事件の発端から一切の経過を洗い直し、対策を検討した。60年の年末には、弁護団の強化を先生に進言する。
先生は「弁護士陣はそのままで」と述べた後、確信を込めて語った。
「戸田先生は私に、『最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか』と言われた。先生のその言葉が、私に無限の勇気と確信を与えてくれるんだよ。先生の言葉には噓はないもの」
公判は84回に及んだ。先生は23回、法廷に立った。時には、自ら検事たちに質問し、その証言の矛盾を突いて真実を明らかにした。最終陳述では「学会が選挙運動を行うことは、国民としての権利を行使するものである」と堂々と訴え、拷問に等しい学会員への取り調べを批判した。
62年1月25日、判決の日。池田先生の「無罪」を告げる裁判長の声が法廷に響いた。
裁判を終えると、すぐに先生は関西本部に戻り、恩師の遺影に勝利を報告した。この日、先生は語っている。
「むしろ、戦いはこれから始まるのだ。一つの段階を越えると同時に、次の段階へ向かってスタートする。これが本因妙の仏法のゆえんだよ」
無罪判決の翌日、本部幹部会が開催された。席上、新たに誕生した公明政治連盟(当時)の支援が発表された。次の段階へ、学会はスタートを切ったのである。