市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

デジタルカメラ

2006-02-07 | Weblog
 ドキュメント展の隣室で、デジカメを愛好するグループの作品展が開かれていた。僕も今ではデジカメしか使用しなくなったので、興味を引かれて展示室に入ったみた。
 
 どこまでフィルムの一眼レフに追いつけるのかと期待して入ったところ、さにあらず、コンピュータ処理された作品の映像展示であった。しかしそれは、デジカメだけの特技ではないのだ。だがフィルム写真をこれほどコンピュータ処理することはふつうはありえない。デジカメでは、写真加工のアプリケーションソフトが、スムーズに使える。そのことが、デジカメ写真をコンピュータ処理したくなるのか。

 その結果生み出されたデジカメの写真作品は、僕にはコンピュータグラフィックとしか感じられなかった。確かに意表をつくデフォルメ、色彩変換、組み合わせ、
拡大縮小、抽象化などなどさまざまの、もはや写真とはいえない映像作品が並んでいた。

 その前に立って見ると撮影された対象が、霧散して、現れたものは、まさにグラフであった。そのグラフは、人間の手でなく、パソコンのアプリケーションソフトで作られたものじゃないかと、感じてしまうのだった。写真特有のドキュメント性、記録性、事実性が感じられなくなっていた。
 
 なんか空ろなものなのだ。一見、この世にないようなメージが創造されたように思う人がいるかもしれない。しかし、自分で写真をソフトを使って、加工していくと、これらのイメージもソフトの処理能力に縛られる。映像の可能性は、ソフトの値段次第で大きくなると、実感できる。同じソフトで加工していると、やがて、やってもやっても、ありふれたものの域をぬけだせないということに気づいてくる。

 映画もアニメもそのようになってきている。どんどん実在感が感じられなくなり作りものに、むりやり付き合わされていくような不快感をおぼえる

 僕はこのデジカメ展をみて、デジカメの落とし穴をみたような感じがした。そしてまた、写真とはなんなのだろうと考えざるをえなかった。つまり、写真が実在を
写すこととはなんだろうかと。
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