率直に言えば、あなたの撮影できる街は消滅していくのではないかという僕の質問に対して、森山さんは思いがけない解答を述べた。
どの街も画一的な風景になってきた。都市開発のためであるが、昔に戻るというノスタルジーは意味が無いというのである。街は均質化されていくが、どんな街になろうと、そこで人間は生き続ける。その限り写真は撮り続けるというのだ。
この発言を聞いたとき、僕は、彼の写真を郷愁とか、懐かしい風景とかの視点だけで、見るのは間違いだとわかったのである。街を撮るというかれの行為は、街を風景としてでなく、如何に生きるかという人のあり方として撮るのだと思うと理解できる。そのとき、かれが何気なく述べた「野良犬が街を歩いているように」という言い方が思い出された。そう、野良犬は、街をどうするとか、街づくりとは無関係な存在である。その街を生きるのである。どんな状況になろうと生き抜く。その野良犬のような存在を、かれは美として撮影するというのではないのか。
それはきわめて局外者的な視点であり、きわめて自由な生き方である。現代資本主義社会から離れた生き方である。負け犬、勝ち犬という視点では捉えられぬ世界が表現される。そんな思いがしだした。外面の大人しさとは、まったく別のアウトローのタフさこそ森山大道であったのかとわかりだしたのである。
実際の写真はまだ見てない。近日中にドキュメンタリー展で、ブエノスアイレスを見てみよう。
どの街も画一的な風景になってきた。都市開発のためであるが、昔に戻るというノスタルジーは意味が無いというのである。街は均質化されていくが、どんな街になろうと、そこで人間は生き続ける。その限り写真は撮り続けるというのだ。
この発言を聞いたとき、僕は、彼の写真を郷愁とか、懐かしい風景とかの視点だけで、見るのは間違いだとわかったのである。街を撮るというかれの行為は、街を風景としてでなく、如何に生きるかという人のあり方として撮るのだと思うと理解できる。そのとき、かれが何気なく述べた「野良犬が街を歩いているように」という言い方が思い出された。そう、野良犬は、街をどうするとか、街づくりとは無関係な存在である。その街を生きるのである。どんな状況になろうと生き抜く。その野良犬のような存在を、かれは美として撮影するというのではないのか。
それはきわめて局外者的な視点であり、きわめて自由な生き方である。現代資本主義社会から離れた生き方である。負け犬、勝ち犬という視点では捉えられぬ世界が表現される。そんな思いがしだした。外面の大人しさとは、まったく別のアウトローのタフさこそ森山大道であったのかとわかりだしたのである。
実際の写真はまだ見てない。近日中にドキュメンタリー展で、ブエノスアイレスを見てみよう。