昨日、宮崎県立美術館で森山大道ブエノスアイレスの写真をみた。森山さんは昔見た同市の写真を見てから、長年思い憧れる街だったと述べている。実際の街も自分が抱いたイメージどおりだったという。その撮影された写真をみて、ぼくもブエノスアイレスに抱いたイメージを満足させられた思いがした。
もちろん、これは現実のブエノスアイレスではなかろう。観光案内でみる繁華街「フロリダ通り」や、世界一の道路幅という「7月9日通り」など、東京や札幌と同じ新開発の都市でもある。そしてその中心市街地に観光客が往来している。
イメージ通りだったのは、森山さんが郷愁の街を撮影し、切り取ったからだ。まだまだ人の手触りやぬくもりがふんだんにある街である。人間くさい、人と人のふれあいが濃密な界隈であった。水溜りがあり、落書きがあり、野良猫や野良犬が座り、露天市場や路地,市場とどこをみても、昔見た生活した街の雰囲気が漂う。それはぼくにとっても、だれにとっても懐かしい風景として重なる。
撮影現場は、繁華街や官庁街でなく、忘れられたような低所得者層の地区のようである。しかし、この地区にこそ、ぼくらの心を揺すぶる街があることがすばらしい。六本木ヒルズや東京都庁ビルを見て、心ときめかす人間がいるだろうか。森山氏の写真、畳一畳ほどの大きさもあって、その光景に吸い込まれるような快感を覚えた。
それはたんにノスタルジーを感じるだけではなく、人間にとって必要な都市とは何かを例証しているからであろう。都市にとって「過去ほど未来である」という森山氏の言葉が思い出される、そして現在ほど過去である。つまり出来たとたんに人間とは相容れぬ終わった産業廃棄物である。個人の役に立たぬ人間疎外の要因でしかない。わが町でいえば、県文化公園、再開発された上野町、末広町、大淀河畔、公立大学周辺、ヨットハーバーなどである。ブエノスアイレスの写真の郷愁は、過去に帰ろうというのでなく都市への批評精神である。その魅惑である。
もちろん、これは現実のブエノスアイレスではなかろう。観光案内でみる繁華街「フロリダ通り」や、世界一の道路幅という「7月9日通り」など、東京や札幌と同じ新開発の都市でもある。そしてその中心市街地に観光客が往来している。
イメージ通りだったのは、森山さんが郷愁の街を撮影し、切り取ったからだ。まだまだ人の手触りやぬくもりがふんだんにある街である。人間くさい、人と人のふれあいが濃密な界隈であった。水溜りがあり、落書きがあり、野良猫や野良犬が座り、露天市場や路地,市場とどこをみても、昔見た生活した街の雰囲気が漂う。それはぼくにとっても、だれにとっても懐かしい風景として重なる。
撮影現場は、繁華街や官庁街でなく、忘れられたような低所得者層の地区のようである。しかし、この地区にこそ、ぼくらの心を揺すぶる街があることがすばらしい。六本木ヒルズや東京都庁ビルを見て、心ときめかす人間がいるだろうか。森山氏の写真、畳一畳ほどの大きさもあって、その光景に吸い込まれるような快感を覚えた。
それはたんにノスタルジーを感じるだけではなく、人間にとって必要な都市とは何かを例証しているからであろう。都市にとって「過去ほど未来である」という森山氏の言葉が思い出される、そして現在ほど過去である。つまり出来たとたんに人間とは相容れぬ終わった産業廃棄物である。個人の役に立たぬ人間疎外の要因でしかない。わが町でいえば、県文化公園、再開発された上野町、末広町、大淀河畔、公立大学周辺、ヨットハーバーなどである。ブエノスアイレスの写真の郷愁は、過去に帰ろうというのでなく都市への批評精神である。その魅惑である。