こだわりは、価値観への執着である。自分勝手のこだわりなら、単に変人である。森山さんの白黒写真へこだわりは、かれの写真がその執着を価値あるものにしている。こだわりは、森山さんの批評意識であろう。それは、大勢とは違う、その
反対である。右向けといえば右向き、新聞・テレビのいうことなら素直に信じて疑うことをしない意識とは相容れない、そこに魅力を感じる。
岩波写真の「日本の写真家 27」は「森山大道」で、初めて宮崎市立図書館で借りた。表紙に一枚の犬の写真が出ている。青森・三沢で1971年に撮影されたものであり、世に「三沢の犬」と有名になった写真である。
犬の写真といえば、愛玩されるペットの抱きたくなるような写真や、テレビ映像ばかり見慣れたぼくにとって、衝撃的写真であった。立ち去ろうとする野良犬がなにかで立ち止まって、振り返った一瞬が撮られている。わずかに牙がみえ、目はするどくなにかを凝視している。強烈な生きる意志があり、その意味では、まさに知性を感じさせる独立した犬である。しかし、荒れた皮膚,垂れた尻尾、傾く体には言い知れぬ悲しみと不安、苦痛もまざまざと感じさせる。この一匹の犬にとって、世界は、生きぬべき荒野であり、また容易に生き抜けぬ不安な世界である。それは71年代でなくとも現在でもきわめてリアリティがある。その犬こそ森山大道の思想でがないのか。
かれは犬を通して、人間と世界の関係を明らかにしたといえよう。「横町や路地が無くなったらどうしますか」とうような質問は、彼の写真を知らぬものの無知なをさらけ出した問いであったわけである。街の姿などが、撮影の対象ではなかったのだ。
この馬鹿げた質問に、森山さんは丁寧に答えられたのである。これはかれの可能性を示していることであろう。
反対である。右向けといえば右向き、新聞・テレビのいうことなら素直に信じて疑うことをしない意識とは相容れない、そこに魅力を感じる。
岩波写真の「日本の写真家 27」は「森山大道」で、初めて宮崎市立図書館で借りた。表紙に一枚の犬の写真が出ている。青森・三沢で1971年に撮影されたものであり、世に「三沢の犬」と有名になった写真である。
犬の写真といえば、愛玩されるペットの抱きたくなるような写真や、テレビ映像ばかり見慣れたぼくにとって、衝撃的写真であった。立ち去ろうとする野良犬がなにかで立ち止まって、振り返った一瞬が撮られている。わずかに牙がみえ、目はするどくなにかを凝視している。強烈な生きる意志があり、その意味では、まさに知性を感じさせる独立した犬である。しかし、荒れた皮膚,垂れた尻尾、傾く体には言い知れぬ悲しみと不安、苦痛もまざまざと感じさせる。この一匹の犬にとって、世界は、生きぬべき荒野であり、また容易に生き抜けぬ不安な世界である。それは71年代でなくとも現在でもきわめてリアリティがある。その犬こそ森山大道の思想でがないのか。
かれは犬を通して、人間と世界の関係を明らかにしたといえよう。「横町や路地が無くなったらどうしますか」とうような質問は、彼の写真を知らぬものの無知なをさらけ出した問いであったわけである。街の姿などが、撮影の対象ではなかったのだ。
この馬鹿げた質問に、森山さんは丁寧に答えられたのである。これはかれの可能性を示していることであろう。