今日で2012年2月29日が終わる。速すぎる。約束もせず、返信もせず、会に出ず、公用、私用もやらず、可能な限り何もせずに、時間を自分だけのために捕獲しつづけているのだが、それでも時間は足りないのに、もう2月が終わった。テレビは朝から晩まで「がんばれ、がんばれ」を叫びつづけているシーンの連続にしかみえない。
「がんばる」というのは、きわめて人間独自のことばではある。つまり人間らしい生き方を実現するための「がんばる」行為の高貴さが、滴り落ちるシーンである。しかし「がんばる」は、どんな行為にも意志にも使えるのである。振込み詐欺の一団も朝、今日もがんばれと声を掛け合っているにちがいない。警察官も治安保持にがんばるが、犯罪者集団も今日も法を犯す行為にがんばる。殺人鬼も、独裁者も、民衆も、報道記者もテロリストもがんばるのである。
では、反対に「怠ける」ということばは、これも人間独自のことばであるが、だれにでも使えない。詐欺団に使えば、詐欺は成功しない、警察に使うことは法治国家がなりたたない。「怠ける」とは、だから意志として、意欲としては成り立たない。怠けるとは、たんに否定的な人の状態、病態、欝、役立たずの形容詞なのであろう。しかし、「怠ける」は意思的にやれる人間的行為にも転化できるのである。しかも、だれにでも適用できないこととして「怠ける」はさんぜんとして光をはっするのである。
殺人鬼にでも使える「がんばる」を、ぼくのまわりの人間には使いたくない。もちろん、一番使いたくないのは、僕自身についてである。さらに大事なことは、どうすればがんばらないことを、朝から晩まで保ちながら、人生を充実して生きられるかが、これが、問題なのである。
そう、それには、努力をしないということである。つまり努力を快楽に変えることである。快楽にかえられない努力はしないということである。つまり欲望充足を、最小減のエネルギーでやることであろうか。それは、これまで何回が述べてきたことだが、あの南米の動物「ナマケモノ」の生き方である。この小動物は、緩慢な手足の動き、一歩進むにも何十秒もかかる動きで、ジャングルの生存競争に生き延びている。答えは、この超スローの動きが、猛獣の視界に認識できないからであるという。しかも樹上から、地上に降りないで一生を過ごすから、より危険は避けられる。そして、一日数グラムの木の葉で生きられるような生体であり、結果があの緩慢きわまりない行動となっているというのだ。
エネルギーを使わないということは、ぼくには出来ない。しかし、がんばるというエネルギーを使わないことは可能なのである。つまりやっていることが、快楽であるかぎり、がんばるということとは、異次元の世界に生きていることに変わるわけだ。たとえば、自転車で、30キロ先の西都市に行く場合、海岸線と坂道の5回ほどくりかえされるコースを取る。なぜなら快楽がより深くなるからである。どんなスポーツにも快楽がある。自転車はそれをもっとも選びやすい。また読書、もしくは勉強という姿は、他人からもっとも「がんばっている」という賞賛を受けやすい努力す姿である。さてぼくの読書は、がんばるというよりは、金を消費する、いや消費できる快楽にすぎない。その本におそらくわりあてられた一ヶ月を、書斎で読むよりも、何倍もの時間を、マクドナルドでよみ、タリーズで読み、サブウエイの快適な照明で読み、温泉の休憩室で読み、最後の1ページは、たいがい、温泉で終わるようにアレンジする。この時間は、まさに外国旅行をしつつけているようなものである。付き合いを止め、仕事をせず、義理をはたさず、日常用務を一日延ばしにして読書の快楽にふけりつつける。これが読書である。その他、いろいろ、さまざま、怠ける行動に転化可能である。
だから、ぼくはいつも思うのだ。がんばれとか、もちろん、なまけよとかも、言わないことにしている。それは、他人に告げてわかるものではないからだ。こんなことばは、無意味なのだ。そのその意味の凄さ、深さよりも、浅はかな軽さが空中に舞う。ほんと、いわないが、口答にしないのが、花なのである。
「がんばる」というのは、きわめて人間独自のことばではある。つまり人間らしい生き方を実現するための「がんばる」行為の高貴さが、滴り落ちるシーンである。しかし「がんばる」は、どんな行為にも意志にも使えるのである。振込み詐欺の一団も朝、今日もがんばれと声を掛け合っているにちがいない。警察官も治安保持にがんばるが、犯罪者集団も今日も法を犯す行為にがんばる。殺人鬼も、独裁者も、民衆も、報道記者もテロリストもがんばるのである。
では、反対に「怠ける」ということばは、これも人間独自のことばであるが、だれにでも使えない。詐欺団に使えば、詐欺は成功しない、警察に使うことは法治国家がなりたたない。「怠ける」とは、だから意志として、意欲としては成り立たない。怠けるとは、たんに否定的な人の状態、病態、欝、役立たずの形容詞なのであろう。しかし、「怠ける」は意思的にやれる人間的行為にも転化できるのである。しかも、だれにでも適用できないこととして「怠ける」はさんぜんとして光をはっするのである。
殺人鬼にでも使える「がんばる」を、ぼくのまわりの人間には使いたくない。もちろん、一番使いたくないのは、僕自身についてである。さらに大事なことは、どうすればがんばらないことを、朝から晩まで保ちながら、人生を充実して生きられるかが、これが、問題なのである。
そう、それには、努力をしないということである。つまり努力を快楽に変えることである。快楽にかえられない努力はしないということである。つまり欲望充足を、最小減のエネルギーでやることであろうか。それは、これまで何回が述べてきたことだが、あの南米の動物「ナマケモノ」の生き方である。この小動物は、緩慢な手足の動き、一歩進むにも何十秒もかかる動きで、ジャングルの生存競争に生き延びている。答えは、この超スローの動きが、猛獣の視界に認識できないからであるという。しかも樹上から、地上に降りないで一生を過ごすから、より危険は避けられる。そして、一日数グラムの木の葉で生きられるような生体であり、結果があの緩慢きわまりない行動となっているというのだ。
エネルギーを使わないということは、ぼくには出来ない。しかし、がんばるというエネルギーを使わないことは可能なのである。つまりやっていることが、快楽であるかぎり、がんばるということとは、異次元の世界に生きていることに変わるわけだ。たとえば、自転車で、30キロ先の西都市に行く場合、海岸線と坂道の5回ほどくりかえされるコースを取る。なぜなら快楽がより深くなるからである。どんなスポーツにも快楽がある。自転車はそれをもっとも選びやすい。また読書、もしくは勉強という姿は、他人からもっとも「がんばっている」という賞賛を受けやすい努力す姿である。さてぼくの読書は、がんばるというよりは、金を消費する、いや消費できる快楽にすぎない。その本におそらくわりあてられた一ヶ月を、書斎で読むよりも、何倍もの時間を、マクドナルドでよみ、タリーズで読み、サブウエイの快適な照明で読み、温泉の休憩室で読み、最後の1ページは、たいがい、温泉で終わるようにアレンジする。この時間は、まさに外国旅行をしつつけているようなものである。付き合いを止め、仕事をせず、義理をはたさず、日常用務を一日延ばしにして読書の快楽にふけりつつける。これが読書である。その他、いろいろ、さまざま、怠ける行動に転化可能である。
だから、ぼくはいつも思うのだ。がんばれとか、もちろん、なまけよとかも、言わないことにしている。それは、他人に告げてわかるものではないからだ。こんなことばは、無意味なのだ。そのその意味の凄さ、深さよりも、浅はかな軽さが空中に舞う。ほんと、いわないが、口答にしないのが、花なのである。
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