市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

レコードコンサートが先なのか、真空管アンプが先なのかは

2013-12-19 | アート・音楽
 真空管アンプの視聴体験をもとに書いてきているが、熊本市に転勤になった記者のAさんが、昨日やってきたので、もともと学芸担当のベテランだった彼に、蓄音機や真空管アンプでレコードを聴いたと話をした。それはいい体験だったと喜んでもらえたが、彼本人も、自宅に100万円のオーディオを備えるレコードやCD音楽の愛好家であると始めて知った。熊本に赴任してから最近熊本市内でジャズ喫茶を発見、毎週通っているというのだ。その店で1000万円超のセットで聴くと、レコードはもちろんCDでも深みのあるいい音となるというのだ。1000万円!もするのと驚くぼくに、彼は笑いながら、実家に帰ったときは、オーディオ装置販売店の視聴室に行く話をしだした。その部屋にはジャズ、クラシック、ポップと1000万円どころか、2000円以上の装置がずらりと並んでいて、そのどれかで聴くわけで、それは驚異的な音質で音楽が聞こえてくるというのだ。ぼくの100万円のセットなど、オーディオという山の底も底でしかないものなんだというのだった。以前は阿蘇山中にある「オーディオ道場」という喫茶店に行ったものだが、ここはお城のような武道場を改築した建物で、体育館みたいな広い床にそれこそ1000万単位を真空管アンプやCDアンプがごろごろ置かれているとう。それも腹に響く音響でジャズを聴かせてくれるし、リクエストでも持参のレコードでもCDでも演奏してもらえるという。山の中だから巨大な音響も可能なのだそうだ。そのアンプの再生機能は、日常ぼくらが聴くアンプでは想像できないかもしれないとも話すのだった。

 アンプは、普通では、レコードの録音の17,8パーセントしか再生していないのだそうだ。だから、かれらはそのパーセントをアゲルために財力や工夫を注ぎ込んでいる。スピーカとアンプを連結する100万円の導線を、30万円の導線に変えてみたら、かえってこちらの安物のほうが、いい音になったと話したりするという。例のジャズ喫茶の親父さんも、スピーカーを支えるために置いていた樫の木の台を、桜に変えたところやっと思った音が出だしたと話したという。こんな話を聴いていると、蓄音機とアンプをちらと聴いただけで、アンプの話や、レコードの話などするのは、見当違いのことのようであると気恥ずかしくなってくるのであった。しかし、こういう話をきいていると、レコードの刻まれた演奏音楽の記録が再生されるということは、どういう物理学的現象が生じているのか、知りたくなってくる。17パーセントの録音記録の再生とは、具体的にはどういうことなのだろうか。アナログの溝を針が走りながら、その溝から17パーセントだけ振動をひろって電流に変換するのか、では高級アンプなら同じレコードからなぜ70や80パーセントの振動をひろえるのか。さらに電流となった記録が、マグネットを強弱にして、それがスピーカを振動させて音楽を再生するときに、導線を変えたり、敷物の材質を変えたりとしたら、いい音質になるというならば、その音質は後から加わったものではないのか。そうなると、音波とは何なのか。その音波を形成する素粒子の働きが問題になるかもしれない。いや、記録されたということは、実はその記録は、素粒子までいく、計測されるものでなく、音楽とおなじに実態として、計測することは不可能である音楽の本質が、記録にもなる。それだから、どこまで接近できていくかしかない、ゴールはないとうことになるのだろうか。物理的数量の世界が、どこかで消滅しているのだ。

 さて、今やレコード音楽の再生とは、理論的にこうであると、計測できないことだけはいえそうな気になってきた。で、このことは脇に置くしかない。そこでレコード音楽と真空管アンプのどちらが先、重要であるのかという問題は、貨幣の両面であると思うと考えやすくなるように思う。その際、表はアンプなのか、裏なのかは、どうでもいいことである。そこまでなら、人によっては表をレコード音楽にして、裏をアンプとうするとも、その逆とも気分の問題でしか過ぎない。例のオーディオ道場はたぶん表はアンプなのか、その道場のとなりにも喫茶店があり「SOUND・音・阿蘇」と看板だけが残存しているということだ。どちらもアンプが表であるように思う。彼は即座に音楽を聴くためにでかけるというからレコード音楽が表である。その関係を貨幣であるとみると表も裏もどちらが重要だとかは関係ないのである。表裏あって貨幣が成り立つ。表裏あって貨幣の価値を示すだけである。一円硬貨もあれば、百円硬貨も五百円硬貨もあり、その交換価値だけがある。貨幣をどう使用するかだけが問題なのである。つまりここではアンプと音楽レコードが生み出す価値、「音楽」をどう消費するかが問題となってくるのである。

 その後、ぼくが聴いた真空管アンプでのコンサートは、7年経った現在も持続されている。その後の記録によると、平成23年9月に「宮崎レコード音楽愛好会」が田中さん代表で結成され、まずは宮崎市の喫茶店「色空」で街角レコードコンサートとして実施されるようになった。毎回アンケートを取り、感想や意見そしてリクエストを募集してコンサート内容をアレンジしてきている。その演奏曲目(2011/6~2013/6)をみると、ジャズやヴォーカルも加わり、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ショパンなどなどと並んでいる。同時に再生装置は、毎回、会員各自がレコードプレイーヤー、MCトランス、カートリッジ、プリアンプ、メインアンプ、スピーカーと提供して構成されている。聴衆に可能な限りいい音で音楽を聴いてもらいたいという意図があるのが伺える。このコンサートの中で、ぼくが注意を引かれたのは、先月の16日(土曜)に県立総合博物館の保存建物がならぶ民家園の一棟・椎葉村古民家で実施されたコンサートである。これは第一部がなつかしの映画音楽、第二部がリクエスト音楽となっている。りんごの歌から青い山脈であり、太陽がいっぱいや、サントアマミー、津軽しゃみせんと演奏は、民家の囲炉裏の火をかこんでつづけられた。参加者は72名であった。このときも音響装置は真空管アンプとプレーヤーからカートリッジ、と会員3名がそれぞれ提供している。盛況であり、思い出に涙をながす人も見えたということである。コンサートにようやくテレビや新聞などメディアも報道をするようになって、知られるようになってきている。その結果、ウィークディに実施する県立図書館のコンサートも九月には52名となり、座席数が足りなかったという。現在、真空管アンプとレコード音楽の貨幣がこのようなレコード音楽コンサートを生んでいる。アンケートにも大アンプ、大スピーカで聴く迫力などの感想も寄せられている。ここでは、これなりの消費をしていっている。

 もう目につかなくなったと思っていた真空管アンプとレコード音楽が、絶滅を免れて生存し続けている。消費の拡大がつづけていけそうだ。原発ではないのだ。これがいい。これが文化だ。 

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