市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

蓄音機・真空管アンプとの可能性を求める人たち

2013-12-14 | アート・音楽
蓄音機を捜し求め当時のレコードを探し出して音楽を聴くのは、蓄音機とレコードの入手で、目的は達せられるように思う。だが、真空管アンプとなると、真空管にはじまり、導線、トランス、その設計と無数の工夫や、製作技術が必要だ。加えて、不可欠のスピーカーもその性能は、商品目録を埋め尽くし、自分でも、スピーカーの製作に没入しなければならない。配置、それを収める筺体の材質や形状などなど、技術的課題は、性能の発揮に向けて試行されつづけられる。こういうプロセスでの真空管アンプの到達点というものはあるのだろうか。また他方で、音楽レコードの音楽つまり演奏をどこまで再生すれば、完了するのだろうか。いや、レコードに記録された溝(記憶媒体)の再生は、どこをもって完全再生となるのだろうか。そういうゴールはあるのだろうか。それが確定されれば、そのレベル作業は終了となる。ゴールまでの作業となる。しかし、80歳近くまでアンプの作成をつづけてきて、まだ新たな目標があるという情熱も燃えていたお医者さんにゴールはないのであった。では、真空管アンプに心血を注ぐ人は、自分の再生しているレコード音楽が、満足なのか、あるいはまだ不満足なのかを、どこをレベルにして判定、納得するのであろうか。作品として発表する場があり、聴衆者があり、その反応を知り、また批評に出会えるなら、自分の位置はかなり分かるであろう。今、宮崎市ではそれはない。真空管アンプ愛好会が生まれ、20名ほどの製作者が集まったのには、このような自己研鑽もあったのだろうとおもわれる。そこで、思いだしたのは、その会が出来て、2回か3回めのレコードコンサートに田中さんから招待された日のことである。

 その日の体験は、当ブログの「なぜ真空管アンプなのか? 2007-10-23 」 おなじく 宮崎真空管アンプ愛好会 2007-10-22」に発表した。今、これを読み返すと、あのときもゴールと現在のレベルをメンバーはどう判定するのか、つまりなぜ真空管アンプなのかという疑問はもっていた。あの日から7年も経っていたのだ。今回は、別の視点で、あの体験を見直してみることが出来る。今年になって、メンバーの会にも数回出席したし、コンサートも数回は出席したし、なかんづく田中さんとは、アンプ再生について、疑問をぶっつけて意見を話し合える機会もあったから、あの会を現在では、一つの材料として捉えなおしてみる視点をえられている。

 まず今言えることは、当時は、はっきりしなかったが、あのコンサートは、真空管アンプの再生レベルを知る目的とレコードコンサートの目的が並列していたことである。そのことはコンサートおのレコード選定にも認められる。それを見てみると、まず、レコードは、一枚目はハイドンの交響曲「熊」ベルリン交響楽団でドイツ製のレコードという27分の演奏録音であり、次は60年代後半の録音というドヴォルザーク「スラブ舞曲集」36分、最後はリヒャルト・シュトラウス「最後の4つの歌」23分であった。この演奏曲目はクラシック音楽の選定というより、いわゆる名盤であったといえよう。これが、コンサートの基準として選択されていた。とにかく、一時間半のこの重苦しいクラシック音楽の視聴は、普通の人々、とくにわかものたちには耐えられないはずだ。幸いなことに聴衆は愛好家メンバーで例外は僕だけであったので、それなりの意味はあったわけであった。問題はレコード再生終演のあとの懇親会で起こった。 
 田中さんが、この会をこれからは、県立図書館に移し,図書館に保存されているおよそ4000枚のLPから選んで、レコードコンサートを継続していこうと発言したのだ。すると一人の会員が「わたしたちは、真空管アンプの会ではないか、ここを忘れて、レコードコンサートをするとは、話が逆だ」と強い口調で述べたのだ。と、田中さんが「レコードコンサートがあってこそアンプで、レコードコンサートのないアンプなどありえない、話が逆なのは、あなたのほうじゃないか」と日頃みせたことのない口調で言い返したのであった。だがこのやり取りよりも、おどろいたのは、会場はそのあとシーンとなって、話は展開しなかったことである。

 今思うと、愛好会の各人も、レコードコンサートが先なのか、真空管アンプが先なのかは、かんたんに答えられないことを、日頃からのアンプ製作の過程で体験することがつづいていたのだろうと思われる。レコードコンサートをアンプでやるということは、アンプの再生価値を評価できるからであり、しかし、その価値がその後のオーディオ再生、デジタル再生、パソコンやスマホと拡張しつづけているとき、なぜ真空管アンプなのかという回答を出来るには、真空管アンプ再生のレコードコンサートの価値をこうだと確信できなくてはいけない。それは、ゴールなき戦いであり、いまどの到達点にいるのかの把握であり、レコードはアンプ再生の手段でもあるわけである。そこで、問いは発せられる。あなたは、アンプを楽しみたいのか、音楽を楽しみたいのか、あるいは両方か、ではふたたび問いたい、このレコードコンサートの目的はなんなのか。もし、真空管アンプによるレコードコンサートが、他に勝るというのであれば、なにを根拠にそういえるかという問いは残ってしまう。蓄音機を愛するのも、真空管アンプを愛するのも、自分の好みとくくってしまう前にまだ論拠がありうる、それはなんなのか、試論を述べてみたい。


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