市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

谷本 仰ライブは、魔法のコンテンツ

2015-08-31 | アート・音楽
 前回(8月29日投稿の分)につづく。ここまで谷本仰のライブについて、そのチラシによる
先入観をながながと記した。その夜の谷本さんも演奏も、チラシの先入観とは正反対であったのだ。なによりも、谷本さんは、三木ちゃんの言ったとおりの気さくで、接しやすい人柄であった。また難しい話などは、ぜんぜんなく、要は、かれの演奏するバイオリンに話はこめられているのだった。その「話」は、その夜の「ひむかの村の宝箱」と、20人の聴衆と、台風前夜の風と驟雨と暗い闇の自然がくわわったその夜かぎりの話であったと思えた。つまりちらしのタイトル「Solo Dialogues」独奏者の対話であった。さらに言えばバイオリンが、ぼくと対話するという魔法のコンテンツを出現させたのである。

 何も知らず、ひたすら偏った先入観を抱いていたことが、かえって良かった。こんな魂消たバイオリン演奏があるのかという衝撃が心身をゆさぶった。クラシック音楽会などで手拍子をうったり、リズムの合わせて手足を動かしたり体をゆすったりすることはありえないのだが、幕開きの即興曲がクライマックスになっていき、まさに轟音となって満ちていくとき、ぼくはそうしていた。そのうえ、なぜか哄笑していた。三木ちゃんも先駆けていつものように声たてて笑っていたので、ぼくだけが変態ではなかったのを知った。

 夜の森の一本の木のしたで、狸や街から来た犬や猫がくわわって、バイオリンを中心に演奏をしているという様子を感じ取れたのだ。雨、風も強くなってきたので、それに負けじと、かれらは懸命に演奏をするのだ。負けるな、負けるなの演奏ぶりが、なぜか笑えるのだ。なにゆえか、犬や猫も狸も迫り来る台風の予感のなかで、ひたすらにバイオリンの曲をもりあげている。それはまさにドンキホーテのこっけいさを感じさせるのだった。ここは、人間という音楽家でなくて、動物たちであるのが、イメージとして心に響いてきた。つまり純粋さといえようか、ひたすらに生きていくために、目の前に音楽が演奏されている。どこかユーモラスなシーンにおもえたのであった。実現しえない魔法の国の光景に思えたのであった。こうして、怒涛が引くようにして、演奏は終わった。汗がどーっと吹き出すような沈黙が訪れた。その即興曲は、パンクという曲名にしたと、かれは汗をぬぐようにして告げた。高速道でパンクした経験で、生まれた曲だと説明された。

 以上は音楽エフェクトを併用し、エファクト自体も演奏されて展開した序曲のぼくの感想である。具体的な演奏法については、語れない。ただ聴いてもらうしかない。その高度なテクニックに裏打ちされたバイオリン演奏が、聴衆を魅了するに違いない。その意味でアートである。ここで、アートはステージから聴衆と対話するために降りてくる。この実感に興奮させられたのだ。そして、「パンク」という曲名自体も、ぼくには意味があった。なにかやろうとし、つらぬけば、人生、パンクの連続ではないかと。パンクにわずらわされていたら、一歩もまえにはすすめないという現実である。ここに谷本仰の生きる意味がこめられているような思いがした。

 つづけて、アメイジングレイスのバイオリンソロであった。それは、灼熱の砂漠の荒野で流れ出すようであった。鋼のような賛美歌になっていた。この演奏には、谷本さんの練達の技と冷徹な意識がこめられていた。甘い優美な優しい賛美歌のかわりに、立ち向かい、破れ、悔いる、立ち上がるという精神の賛歌のような力強さがこめられた、吸いこまれるような演奏になっていた。それから第2部のタンゴの演奏になっていったのだ。

 タンゴは、ぼくはあまり好きではないのだ。このグローバルになった世界のなかで、いまだにヨーロッパ至上主義のような雰囲気をかんじてならないのだ。あのリズムそのものもマンネリに覚えて退屈なのである。ところが、かれのタンゴの解釈は、えっという視点がかたられたのだ。タンゴは落ちこぼれて、アルゼンチンにやってきたなぐれものが、ここでふたたびなぐれてしまった男たちの嘆きと郷愁の歌だというのだ。男と女の華麗な駆け引きではなくて、女を追いかけても手にいれられぬ男の悲嘆だというのだ。希望を失った男がすがったヨーロッパへの郷愁だという。疎外された脱落者の歌という。夢なく、孤立し、生きる実感もなく、自分を喪った男のよりどころという。まさに「パンク」だ。この解釈はいい。それなら分かる。だが、かれのバイオリンだけによるタンゴには、まだついていけないものがあった。あのタンゴのリズムがあるかぎり、それはタンゴになるからである。いや、その夜ぼくは、序曲の即興曲と、谷本のアメイジンググレイスに意識をすでに占められていて、もう満喫していたせいかもしれない。それほど、かれの演奏の振幅は広かったともいえる。ただ、近く宮崎市民会館で、「トリオ・ロス・ファンダンゴス」というかれのばんどで、公演があるということを聞いた。その夜を待つことにしようと思ったのである。
 


 
 


 

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