とんびの視点

まとはづれなことばかり

あとは国民の判断

2018年04月01日 | 雑文
4月1日だ。あっという間に今年も3ヵ月が過ぎた。1月、2月はわりと良い感じで過ごせたが、3月に入り少し雲行きが怪しくなってきた。

まずは花粉症に攻め込まれた。これまで、秋には軽いアレルギー反応が出ていたが、春の花粉症とはほぼ無縁だった。しかし今年の春は、目と鼻がやられた。寝ているあいだに鼻が詰まり口を開け、喉が渇き詰まり、苦しくて飛び起きることが何度もあった。仕事中、何かを考えようとするが、いつの間にかぼーっとしていたことも何度かあった。考える力が3低空飛行している感じだった。

ランニングも月目標の150kmを下回り127km止まりだった。休日に天気が崩れ距離が稼げなかった。そして脚を痛めて走れない日があった。(さらに腰を再び痛めてしまった。4月のランニングも黄色信号だ。)しかし言い訳にはならない。経験に照らせば、悪天候や体調不良があっても目標達成できないようではランナーではない。その意味では、4月が今年のランニングを左右する分水嶺となるだろう。

もうひとつ想定外のことが起った。森友問題の文書改ざんを巡っての官邸前や国会前での抗議行動が始まったことだ。憲法改正問題で秋以降に何らかの行動が起るとは思っていたが、この時期とは思っていなかった。その結果、何度か官邸前に脚を運んだ。率直に言えば、こういうことにあまり時間を取られたくない。しかし、こういう時にはきちんと態度を示しておかねばならないとも思う。(憲法12条 この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力をもってこれを保持しなければならない)

僕は一貫して安倍政権には批判的だ。ひとつは言葉の使い方が無茶苦茶だからだ。もうひとつは公正なプロセスを無視して物事を進めるからだ。(この2つは同じコインの裏表だ。)きちんと言葉で考え、丁寧にそれを形にしてく。そういうことをないがしろにすると、人の心はすさみ、人々は分断され、社会は劣化する。経済さえよければ何でもよいとはいかない。実際、よいといわれる経済だって、デフレ脱却は道半ばだし、庶民レベルでは豊かになった実感はない。頼みの綱の株価もそろそろ限界だ。

「あとは国民の判断」。佐川さんの証人喚問を受け、安倍首相はそう言った。この言葉はとても重いものだと思う。国民の皆さんが辞めろと言えば私は辞めますが、辞めろと言わなければ辞めません。いや、それどころか、辞めろと言わないのであれば、私が正しかったことが証明されます。そういう意味を持ってると思う。自分を倒したければきちんと態度で示せ、そういう言葉なのだ。その意味では、安倍首相はきちんと国民に問いかけているのだ。国民は無視してはいけない。

安倍政権に批判的だと書いたが、安倍首相やその周辺の人間を批判したいのではない。特定秘密保護法、安保法、共謀罪など、問題のある法案をつぎつぎと提出してきた。また、森友問題や加計学園問題、南スーダンPKOの日報隠しなどの問題もあった。その間には選挙があったにもかかわらず、安倍政権は続いてきた。結局は国民が安倍政権を認めてきたのだ。小選挙区制、実際の得票数が少ないなどの問題もあるが、それは言い訳にはならない。結局は民度なのだ。

人は自分を基準にしてものを判断してしまう。ある出来事に自分と同じような反応をしない人を見ると、批判的になってしまう。たとえば、このところ毎週金曜日夜の官邸前には1万人を超える人たちが集まり、思い思いに抗議の態度を示している。スピーチをする人、コールすると、だまって立っている人、写真をりとSNSで拡散する人。個人が自分の意志を態度で示すのは良いことだと思う。べつに暴動を起こそうというわけではないのだ。しかし人数が少ない。これだけのことがあったのに、なぜ1万人しか集まらないのだろうと思う。毎週10万人集まれば事態はすぐにでも変わる。みんないったい何をしているのだろう。そんな風に感じてしまう。

しかし全く反対の立場の人たちもいる。彼らからすれば抗議している人たちは反日、売国奴であるらしい。

僕が気になるのは、そのどちらでもないような人たちだ。多くの人たちが、森友問題と文書改ざんを知り「ひどいことだ」と言う。そして「さすがに安倍政権ももたないだろう」などと言う。いろんな意見や批判や正論めいたことを言う。でも、そこで終わりだ。ひどいことを何とかしようという当事者意識が感じられない。自分のことではない、遠くの出来事を語っているかのようだ。

多くの人たちが内心、安倍政権に疑問を感じている。しかし、それに対して自分から態度を示そうとはしない。太平洋戦争後、日本の指導部の多くの人たちが「内心では戦争には反対だったが、それを言い出せる空気ではなかった」と述べた。人によっては今の状況が戦前と似ているという。そうなのかもしれない。きっと日本人は敗戦から大事なことを学ばなかったのだろう。

一部の人たちは押し付け憲法だという。たしかに憲法は日本人が自分たちで勝ち取ったものではない。それは民主主義も同じだ。自分たちで勝ち取ったものではなく、たなぼたのように転がり込んだものだ。人は手に入れるのに苦労したものは大切にする。でも簡単に手に入ったものは邪険に扱う。民主主義と口では言いながら、戦後日本は経済発展のみに力を注いでいたのではないか。

国民主権も基本的人権も平和主義も、多くの人たちにとっては当たり前にあるものだった。必死で守る必要も感じず、それらについて考える時間も取らなかったのだろう。僕自身、教育の過程でそれらについて深く考えさせられることはなかった。試験に出るから、用語と簡単な内容を覚えた程度だ。

いま、旧優生保護法に基づく強制不妊手術が問題になっている。法律が出来たのは1948年だ。憲法はすでに手にしている。なぜ基本的人権という観点が働かなかったのか。憲法9条を掲げ平和主義を唱える。でもそれは沖縄に基地を過剰に集中させ、自衛隊に負担をかけこることで成り立っていた、本土の表面的な平和でしかなかったのかもしれない。

そして「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。これは国民に「主権」を問うているのだ。あなたたちは主権者としてどう判断するのか、と。賛成であれ、反対であれ、国民は自らの考えを態度を示さねばならないだろう。問われているのだから、答えねばならない。黙っていたら、誰も忖度などしてくれない。このまま安倍政権が続けば、おそらく彼は憲法改正まで突き進むだろう。彼はそのために政治家をやってるのだから。そして憲法改正された社会では、主権も人権も平和も制約されるだろう。自民党の改憲案を読めばわかる。

憲法改正された社会と憲法改正されない社会、どちらの社会になっても日本は続く。そこで人は生まれ、生活し、死んでいく。日本はなくならない。しかし実現するのはどちらかひとつだ。それが唯一の現実の社会となる。自分が生き、生活する社会のありようを自分で選ぶ。人としてごく当たり前のことではないかと思う。選ぶことを放棄するのであれば、自由や権利がなくなるのも仕方がない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする