8月23日の日曜日、午後4時近く、僕は相方と南北線に乗っている。表参道で行われる安保法案反対のデモに参加するためだ。乳母車の若い夫婦、疲れたように目をつぶり席に腰掛ける老女、ヘッドフォンをしてスマホを覗き込んでいる若者、浴衣を着た若い女の子、いろんな人たちが同じ電車に乗りあわせている。この中の1人でも一緒にデモに行く人がいるのだろうか。そもそもこれからデモがあることを知っている人がどれくらいいるのだろうか。そんなことを思う。
乃木坂駅で地上に出る。集合時間の4時半ちよっと前だ。少し涼しい風に、時折、細かい雨が混じる。雨にならなければ良いのだが、そう思いながら集合場所の青山公園に入る。思ったより狭い公園にはけっこうな人が集まっているが、それでも少ないような気がする。すこし心配になる。すでに人々は並び始めていて、2つほどグループが出来上がっているので、3つ目のグループに並ぶ。SEALDsのスタッフがプラカードを渡したり、人々を整列させたり忙しく動き回っている。
法案のこと、デモのことなどを考えながら、列に並んで出発を待つ。今まで原発や特定秘密保護法で何度かデモに参加した。自分なりに勉強した結果、なんらかの意思表示をしなければならないと思ったからだ。だが、何度かデモに参加しながらどうしてもしっくりいかないところがあった。一番大きな理由は、デモ参加者の一部が発する声の響きだった。東電や政府を批判する理路やその怒りは理解できるが、ときおり発される声に混じる憎悪のような響きに僕自身がやられてしまうのだ。いつしか抗議の現場には足を運びながら、デモの隊列に入ることをためらうようになっていた。
6月末から国会前のSEALDsの抗議行動に参加するようになった。最初は抗議の現場に立ち会う程度のつもりだったが、彼らの発する主張や声のストレートさが気分良く、毎週のように参加するようになった。疲れた体で足を運んでも、帰る時には元気になっていた。今回のデモもきっと良い感じで行えるのではないかと、そんな予感があった。
デモの出発の5時が少しずつ近づいていくる。少しずつ気持ちがざわついてくる。軽い高揚感だ。何かに似ていると思った。そうだ、マラソンのスタート前だ。スタート10分くらい前にコースに並ぶ。軽くストレッチをしたり、屈伸をしたり、呼吸を整えたりする。これからの42㎞のきつさとゴールの達成感を想像する。
出発を前に、みんなでコールを合わせる。うん、けっこう合っている。音楽が流れ出す。そしてデモが始まる。僕らのグループは先頭だった。音楽に合わせて公園を出る。スタートラインを跨いで走り出したような感じだ。自分の足を確認するためゆっくりと走り出すように、音楽に合わせて軽くコールをする。始まりだ。
青山公園から246までは住宅地と路面店の中を歩く。公園横のグランドでバスケットボールかサッカーをしている子どもが不思議そうにデモを眺める。デモの参加者が車道の一車線を歩き、歩道をスタッフがついていく。音楽と声に誘われるように、住民や店の人たちが道端に出てくる。スタッフがパンフレットを渡している。デモの趣旨を説明しているのだろう。快く受け取って好意的に手を振ってくれる人もいる。店から出てきて手を振ってくれる人もいる。
もちろん、中にはうるさいと思っている人もいるだろう。車の流れが滞って迷惑だと思っている人もいるだろう。あるいは反対の意見を持つ人が腹立たしく思っているかもしれない。でもそういう迷惑や反対意見を排除せず、許容することが社会の成熟につながる。武蔵美の女子がスピーチをし、高校生の男子がスピーチをする。プロの大人がテクニカルな突っ込みを入れればやり込めることができるかもしれない。でも、彼らの等身大の言葉は市井の人たちの胸に届く。
スピーチを聞きながら歩く。コールをしながら歩く。大きな声の人もいれば、小さな声の人もいる。メガホンを使う人もいれば、ただ歩いている人もいる。みんなが思い思いにしているのが良い。音楽のリズムがゆるやかにみんなをつなげる。それでも246に入ると、みんなの声が一段と大きくなる。
歩道を歩く人たちが多くなる。彼らの多くは、青山界隈に遊びに来た人や、外国からの観光客だ。彼らの耳にまず入るのは大きなラップ調の音楽だろう。何かのパレードのようだ。音楽にのって声が聞こえてくる。なんだか大掛かりなチンドン屋のようだ。やっと言葉が聞き取れる。「I say 憲法 You say 守れ」「憲法」「守れ」「憲法」「守れ」。「戦争したがる総理はいらない」「戦争したがる総理はいらない」「誰も殺すな」「誰も殺すな」。
何が起こっているのか困惑している人がいる。まったく耳に入らないかのように通り過ぎる人がいる。それでも趣旨をわかった人たちの多くが暖かい表情を見せてくれる。横の歩道だけでない。反対側の歩道の人たちも足を止めてこちらを見ている。信号待ちの車やバイクに乗った人たちもこちらを見ている。安保法案は歴史的な転換点になるものだ。法案が通ってもすぐには何も変わらないかもしれない。その意味が明らかになるのは時間が経ってからだ。その時になって気づいても遅い。なんとなくやり過ごしてはいけない。ひとりでも多くの人が、自分の頭で考えきちんと選択しなければならない。
福島で被災した少年がスピーチをする。道端の黒人集団が音楽のリズムに合わせながら笑顔で近づいてくる。そして陽気にハイタッチする。デモの道中、そうじて外国人たちの反応はよい。趣旨をどこまで理解しているのかわからない。いずれにせよ、こんな街中でデモを行っていること自体を好意的に捉えているようだ。そしてコールが続く。「集団的自衛権はいらない」「集団的自衛権はいらない」。「奴らを通すな」「奴らを通すな」。「ノー・パッサラン」「ノー・パッサラン」。「I say 国民」「You say なめんな」「国民」「なめんな」「国民」「なめんな」。
そして246を右折して表参道に入る。少し日が暮れはじめ、街の灯りが輝き始める。雨も降らず、あまり暑くもない。心地よい日曜日の夕方、休日を楽しむために多くの人たちが表参道に来ている。そんな街の中をラップに合わせてコールしながら歩く。人々が足を止めてデモを見つめる。ちょっと驚いたような表情だ。それはそうだ。デモを見るために表参道に来たわけではない。
手を振ってくれる人。ハイタッチをする人。列に加わる人。スマホをかざして写真や動画を撮る人。歩道を一緒に歩き始める人。歩道橋には鈴なりの人だ。そんな中、僕らはみんなでコールする。「言うこと聞かせる番だ、国民が」「言うこと聞かせる番だ、国民が」。「安倍は、やめろ」「安倍は、やめろ」。「安倍はやめろ」「安倍はやめろ」。「民主主義ってなんだ」「これだ」。「民主主義ってなんだ」「これだ」。「み・ん・しゅ・しゅぎ・って、な・ん・だ」「こ・れ・だ!!」。「み・ん・しゅ・しゅぎ・って、な・ん・だ」「こ・れ・だ!!」。
そう、民主主義とはこれだ。「これ」とはプラカードを掲げ、コールをしながら、歩いている私たちのことではない。心地よい夏の日曜日の夕暮れ、デモなど予想せず表参道にいるたくさんの人、好意的な人もいれば、迷惑な人もいる。そんな中、この社会がよくない方に行かぬよう願う人たちが声を上げている。そういう出来事が起こっていること自体が民主主義なのだ。
表参道を左に曲がり、宮下公園の方へ歩く。デモもそろそろ終わりだ。「戦争法案ぜったい廃案」「戦争法案ぜったい廃案」。「廃案」「廃案」。「廃案」「廃案」。「廃案」「廃案」‥‥。1時間半以上も歩いただろう。それでも疲れはない。それどころかある種の心地よさが残る。
私たちはいま、歴史的な転換点にいる。ひとりでも多くの人が自分のこと、そして次の世代の人たちのことを考えて、その出来事に関わらるべきなのだ。反対しても法案は通ってしまうかもしれない。「そんなこと知るか」、SEALDsの奥田君の言葉に僕も同感だ。でもまだ時間はある、「やれることはすべてやっておく」。それだけだ。
さあ、30日には国会前に行こう。
乃木坂駅で地上に出る。集合時間の4時半ちよっと前だ。少し涼しい風に、時折、細かい雨が混じる。雨にならなければ良いのだが、そう思いながら集合場所の青山公園に入る。思ったより狭い公園にはけっこうな人が集まっているが、それでも少ないような気がする。すこし心配になる。すでに人々は並び始めていて、2つほどグループが出来上がっているので、3つ目のグループに並ぶ。SEALDsのスタッフがプラカードを渡したり、人々を整列させたり忙しく動き回っている。
法案のこと、デモのことなどを考えながら、列に並んで出発を待つ。今まで原発や特定秘密保護法で何度かデモに参加した。自分なりに勉強した結果、なんらかの意思表示をしなければならないと思ったからだ。だが、何度かデモに参加しながらどうしてもしっくりいかないところがあった。一番大きな理由は、デモ参加者の一部が発する声の響きだった。東電や政府を批判する理路やその怒りは理解できるが、ときおり発される声に混じる憎悪のような響きに僕自身がやられてしまうのだ。いつしか抗議の現場には足を運びながら、デモの隊列に入ることをためらうようになっていた。
6月末から国会前のSEALDsの抗議行動に参加するようになった。最初は抗議の現場に立ち会う程度のつもりだったが、彼らの発する主張や声のストレートさが気分良く、毎週のように参加するようになった。疲れた体で足を運んでも、帰る時には元気になっていた。今回のデモもきっと良い感じで行えるのではないかと、そんな予感があった。
デモの出発の5時が少しずつ近づいていくる。少しずつ気持ちがざわついてくる。軽い高揚感だ。何かに似ていると思った。そうだ、マラソンのスタート前だ。スタート10分くらい前にコースに並ぶ。軽くストレッチをしたり、屈伸をしたり、呼吸を整えたりする。これからの42㎞のきつさとゴールの達成感を想像する。
出発を前に、みんなでコールを合わせる。うん、けっこう合っている。音楽が流れ出す。そしてデモが始まる。僕らのグループは先頭だった。音楽に合わせて公園を出る。スタートラインを跨いで走り出したような感じだ。自分の足を確認するためゆっくりと走り出すように、音楽に合わせて軽くコールをする。始まりだ。
青山公園から246までは住宅地と路面店の中を歩く。公園横のグランドでバスケットボールかサッカーをしている子どもが不思議そうにデモを眺める。デモの参加者が車道の一車線を歩き、歩道をスタッフがついていく。音楽と声に誘われるように、住民や店の人たちが道端に出てくる。スタッフがパンフレットを渡している。デモの趣旨を説明しているのだろう。快く受け取って好意的に手を振ってくれる人もいる。店から出てきて手を振ってくれる人もいる。
もちろん、中にはうるさいと思っている人もいるだろう。車の流れが滞って迷惑だと思っている人もいるだろう。あるいは反対の意見を持つ人が腹立たしく思っているかもしれない。でもそういう迷惑や反対意見を排除せず、許容することが社会の成熟につながる。武蔵美の女子がスピーチをし、高校生の男子がスピーチをする。プロの大人がテクニカルな突っ込みを入れればやり込めることができるかもしれない。でも、彼らの等身大の言葉は市井の人たちの胸に届く。
スピーチを聞きながら歩く。コールをしながら歩く。大きな声の人もいれば、小さな声の人もいる。メガホンを使う人もいれば、ただ歩いている人もいる。みんなが思い思いにしているのが良い。音楽のリズムがゆるやかにみんなをつなげる。それでも246に入ると、みんなの声が一段と大きくなる。
歩道を歩く人たちが多くなる。彼らの多くは、青山界隈に遊びに来た人や、外国からの観光客だ。彼らの耳にまず入るのは大きなラップ調の音楽だろう。何かのパレードのようだ。音楽にのって声が聞こえてくる。なんだか大掛かりなチンドン屋のようだ。やっと言葉が聞き取れる。「I say 憲法 You say 守れ」「憲法」「守れ」「憲法」「守れ」。「戦争したがる総理はいらない」「戦争したがる総理はいらない」「誰も殺すな」「誰も殺すな」。
何が起こっているのか困惑している人がいる。まったく耳に入らないかのように通り過ぎる人がいる。それでも趣旨をわかった人たちの多くが暖かい表情を見せてくれる。横の歩道だけでない。反対側の歩道の人たちも足を止めてこちらを見ている。信号待ちの車やバイクに乗った人たちもこちらを見ている。安保法案は歴史的な転換点になるものだ。法案が通ってもすぐには何も変わらないかもしれない。その意味が明らかになるのは時間が経ってからだ。その時になって気づいても遅い。なんとなくやり過ごしてはいけない。ひとりでも多くの人が、自分の頭で考えきちんと選択しなければならない。
福島で被災した少年がスピーチをする。道端の黒人集団が音楽のリズムに合わせながら笑顔で近づいてくる。そして陽気にハイタッチする。デモの道中、そうじて外国人たちの反応はよい。趣旨をどこまで理解しているのかわからない。いずれにせよ、こんな街中でデモを行っていること自体を好意的に捉えているようだ。そしてコールが続く。「集団的自衛権はいらない」「集団的自衛権はいらない」。「奴らを通すな」「奴らを通すな」。「ノー・パッサラン」「ノー・パッサラン」。「I say 国民」「You say なめんな」「国民」「なめんな」「国民」「なめんな」。
そして246を右折して表参道に入る。少し日が暮れはじめ、街の灯りが輝き始める。雨も降らず、あまり暑くもない。心地よい日曜日の夕方、休日を楽しむために多くの人たちが表参道に来ている。そんな街の中をラップに合わせてコールしながら歩く。人々が足を止めてデモを見つめる。ちょっと驚いたような表情だ。それはそうだ。デモを見るために表参道に来たわけではない。
手を振ってくれる人。ハイタッチをする人。列に加わる人。スマホをかざして写真や動画を撮る人。歩道を一緒に歩き始める人。歩道橋には鈴なりの人だ。そんな中、僕らはみんなでコールする。「言うこと聞かせる番だ、国民が」「言うこと聞かせる番だ、国民が」。「安倍は、やめろ」「安倍は、やめろ」。「安倍はやめろ」「安倍はやめろ」。「民主主義ってなんだ」「これだ」。「民主主義ってなんだ」「これだ」。「み・ん・しゅ・しゅぎ・って、な・ん・だ」「こ・れ・だ!!」。「み・ん・しゅ・しゅぎ・って、な・ん・だ」「こ・れ・だ!!」。
そう、民主主義とはこれだ。「これ」とはプラカードを掲げ、コールをしながら、歩いている私たちのことではない。心地よい夏の日曜日の夕暮れ、デモなど予想せず表参道にいるたくさんの人、好意的な人もいれば、迷惑な人もいる。そんな中、この社会がよくない方に行かぬよう願う人たちが声を上げている。そういう出来事が起こっていること自体が民主主義なのだ。
表参道を左に曲がり、宮下公園の方へ歩く。デモもそろそろ終わりだ。「戦争法案ぜったい廃案」「戦争法案ぜったい廃案」。「廃案」「廃案」。「廃案」「廃案」。「廃案」「廃案」‥‥。1時間半以上も歩いただろう。それでも疲れはない。それどころかある種の心地よさが残る。
私たちはいま、歴史的な転換点にいる。ひとりでも多くの人が自分のこと、そして次の世代の人たちのことを考えて、その出来事に関わらるべきなのだ。反対しても法案は通ってしまうかもしれない。「そんなこと知るか」、SEALDsの奥田君の言葉に僕も同感だ。でもまだ時間はある、「やれることはすべてやっておく」。それだけだ。
さあ、30日には国会前に行こう。