現在の市場経済のメカニズムは「社会が崩壊しない程度にまで失業率を高める方が富が極大化する」というようになっている。そして他方では、失業は社会の問題ではなく、あくまでもその人の能力の問題だということに帰してしまう考え方が有力だ。(『続・悩む力』姜尚中著)。
今朝も土手をランニング。11km。今月すでに67km。悪くない。今日は土手は風もなく、荒川の水面も静かだ。雨上がりのアスファルトには水たまり。その水たまりをよけて走る。
南直哉さんの『恐山』という本に、人が死んだあとどこにいくか、という話が出ていた。南さんのお師匠が言うには、人は死ぬと自分が愛したもののところに行くそうだ。人が人を愛したらその人のところに、仕事を愛したら仕事の中に入っていく。
死者はそうやって愛したところに入っているから、生きている人は折りに触れて彼らを思い出すことが出来る。だから愛することを知らない人は心でも行き場所がない。こういう話、僕にはすとんと落ちる。自分が死んだら荒川の土手の風の中にいるのも悪くないな。土手でゆるい風を受けながらそう思う。
今日は次男と一緒に土手にランニングに行った。昨日に続き15kmのランニングだ。もちろん次男は自転車で並走だ。話しをしながら走るので練習の質は落ちる。しかし時間の使い方としてはそれほど悪くはない。小学2年のころの長男もよく自転車でランニングにつき合ったものだ。そのころ次男はまだ小さかったので、一緒に行きたがっても留守番をさせていた。
「だからやっと一緒に土手に来れたわけだ、嬉しいでしょ」と次男に声をかける。北風に向かって自転車を漕ぎはじめ、すぐにいやになり始めていた。体をぐにゃぐにゃさせ、苦い笑顔で「うー」と言っている。(もともと主張の強い男だが、ロジカルに詰められると弱いところがある)。
たしかに15kmはまだまだ長い。土手に来たと思ったら北風だ。先を思うと嫌になるのも仕方がない。気を紛らわせるために何か話をしながら走ろう。そういえばそろそろ学校で分数を習う。分数でいこう。「今日は全部で15km走るよね。もうすぐ3kmだ。15kmのうち3km走ったことになるよね。こういうのを分数では『15分の3』という言い方をするんだ」。走りながらゆっくり区切りながら説明する。
言っていることは理解できるが、今ひとつピンと来ない顔をしている。もう一度、同じ話をして、「15kmのうち3km走ったことになる。こういうのを分数では何て言うんだろう?」とたずねる。自信なさそうにして、答えない。「『15分の3』というんだよ。15kmのうち3kmだ、分数で何て言う?」再びたずねる。「15分の3」今度は即答だ。
そんなやり取りを1kmごとに繰り返す。「15分の4」「15分の5」「15分の6」と。どうやら分数の考え方は分かったようだ。もう少し内容を深める。「15km走るうちの4kmで15分の4だよね。じゃあ13km走るときの4kmは13分の4になるね」。自転車を立ち漕ぎしながらうんうんと頷いている。「どうだろう。同じ4でも『15分の4』と『13分の4』の4は違う感じがしないかな」。「うん、ちがう」。はっきりした顔で答える。「そうだね。5個しかないお菓子の3つをちょうだいと言われるのと、10個のお菓子の3つをちょうだいと言われるのは違うよね」。
それでも並走することに飽きてくる。折り返しまでもう少しだ。それを意識させようと、「全部で15kmでしょ。半分は何kmだか分かる」とたずねる。「7……、70……、?」。そうか少数を習っていないのか。7と8の間だということは分かっているようなので、「そういうのは『7.5』と言うのだ」と教える。そして全部で15kmで半分が7.5km。半分というのは、1つのものを2つに分けたうちの1つだ。これを「2分の1」と言うのだと教える。
そんな話しをしながら折り返す。折り返すと北風が背中からゆるい追い風になる。日差しが暖かく感じられるようになり、自転車で走るのも楽になる。「15分の8」「15分の9」と進む。疲れてはいるようだが、自転車で土手を走ることを自然なこととして受け入れているようだ。立ち止まって道端のカマキリを茂みに帰したり、川の水の色を観察したり、土手に住む猫の話をしたり、土手にいることを楽しんでいる。
おかげで15km走るのに2時間近くかかった。そういえば長男と土手に来たときもよく寄り道をしていた。自分の練習としては今ひとつかもしれないが、週末の時間の過ごし方としては悪くない。昼ご飯の時には「土手に行ったあとはご飯がおいしい。疲れたけど楽しかった」と、きつかったことはもう遠くになっている。
10年もたち彼が大人になったときに、父親のランニングに付き合って土手を自転車で走ったことがよい思い出として思い出されることを想像すると、少し嬉しくなる。
今日は15kmランニング。1つの書き方として。11月最初のラン。今月の目標も200km。しかし週末の予定も多く達成は厳しい。ヒザの調子を見ながら一度の距離を伸ばすつもり。月の後半にはハーフを走りたい。距離とは別にスピードの練習もある程度必要だ。今日はヒザも無事、悪くないスタート。
別の書き方。久しぶりの15kmラン。土手まで走り、土手を上流に。岩淵水門を抜け、新荒川大橋の下を通り、京浜東北線の鉄橋をくぐる。人が少なく北風が吹く。秋の風の音は春とは違う。乾いた空気が乾いた草花を揺らす音だ。そこに自分の足音が重なる。1年前も同じようなことを感じた気がする。
さらに。午前中に詰め込めるだけのものを頭に詰め込み、ランニングに。走ることで、意識によって捕まえられた言葉が、ランニングのリズムに合わせ無意識へと落ちていく。その過程で濾過や濃縮や取捨選択が行われる。すっとした気持ちが家に帰る。次は無意識を言葉にする作業だ。それが僕のランニング。
沖縄で米兵が住居侵入したらしい。関係者がコメントしてるが、森本防衛相は「事実であればまったく許しがたい行為で、到底受け入れられない」と述べたそうな。この言い回しよく聞くが、よく考えると変だ。怒りを表現しているようで、出来事を自分とは関係の無いものとして拒絶しているように聞こえる。
言葉は多義的で、それを発する人や文脈によって意味が変わるものだ。「事実なんだからとりあえず受け入れようよ。それから考えるんだよ」という言葉が浮かぶ。日本政府の沖縄への姿勢を見ていると。
以前、沖縄絡みのテレビ番組で「沖縄と日本」という言葉を見た。(実際よく見聞する)。「東京と日本」とか「埼玉と日本」という言葉はあまり聞かないと思った。(ふつう「日本の東京」とかだ)。無自覚に使っている言葉は、案外、いろんなことを明らかにしてしまう。
やはり「沖縄」と「日本」なのだ。前提が異なる2つの項目で、けっして1つのものではないのだ。だから常に問題になるのは関係だ。強者からすればどう弱者をコントロールするかという。そういえば、歴史的にもずーっとそうであった。