長男が通知表を持って帰ってきた。そう言えば長男の小学校は2期制だった。学校が週休二日制になって授業日数が確保できない。そのためには行事の日を減らすしかない。そんなわけで始業式と終業式の2日分を確保するために2期制になっている。
夏休みの直前に通知表を持ってこないというのも違和感があるし、10月8日に持ってきた通知表に親のコメントを入れて10月12日に返すのも違和感がある。通知表というのは長い休みの間、家に置いてあるものだという習い性のせいだろう。
金曜日に家に帰り、長男に成績表はどうだったと尋ねた。「ほとんど良いだったよ」とすごく嬉しそうな笑顔で答えた。「そうそれは良かったね」と僕も微笑む。正直、小学4年生の段階でそれほど成績にこだわるつもりはない。この段階でこだわるとすれば、勉強の時間を増やし、内容の先取りをすることになるからだ。
勉強の時間を増やすということは、それ以外の何かが出来なくなるということだ。学歴至上主義の保護者からすれば、子どもは無駄な時間を過ごしているように見えるかもしれない。でも子どもはその時期にしか出来ない、自分たちにとって意味のあることをやっているのだ。
ちなみに長男は、公園で手ごろな大きさの石を拾って、それをさらに大きな石で割って「砥石」を作っている。その間、友だちの何人かは日能研やサピックスで勉強をしている。ある程度、学力に差が出るのは仕方がない。
とは言え、良い成績が取れているならそれに越したことはない。ほとんどが「良い」という通知表を手に取ってみた。3段階評価である。「大変良い」「良い」「もう少し」。なるほど、たしかに半分以上が「良い」である。言い換えれば、半分以上は「大変良いではない」ということになる。
通知表から顔を上げて長男を見る。にこにこして僕を見ている。「うん、たしかにほとんど良いだ。良かったね」と声をかける。「小欲知足」という言葉が浮かんだ。同じ成績表でも「大変良い」がなかったと不満に思うことも出来し、「良い」がほとんどだったと喜ぶことも出来る。どちらが幸せか、どちらが満たさせているかは明らかである。
もちろん、そんなことをしていると将来しっぺ返しを食らうことになるぞ、と思う人たちも多いだろう。あるいはそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。先取りの詰め込みの時間よりも、満たされた表情をしている時間の方が(少なくとも小学生くらいの段階では)必要だと僕は思う。
夏休みの直前に通知表を持ってこないというのも違和感があるし、10月8日に持ってきた通知表に親のコメントを入れて10月12日に返すのも違和感がある。通知表というのは長い休みの間、家に置いてあるものだという習い性のせいだろう。
金曜日に家に帰り、長男に成績表はどうだったと尋ねた。「ほとんど良いだったよ」とすごく嬉しそうな笑顔で答えた。「そうそれは良かったね」と僕も微笑む。正直、小学4年生の段階でそれほど成績にこだわるつもりはない。この段階でこだわるとすれば、勉強の時間を増やし、内容の先取りをすることになるからだ。
勉強の時間を増やすということは、それ以外の何かが出来なくなるということだ。学歴至上主義の保護者からすれば、子どもは無駄な時間を過ごしているように見えるかもしれない。でも子どもはその時期にしか出来ない、自分たちにとって意味のあることをやっているのだ。
ちなみに長男は、公園で手ごろな大きさの石を拾って、それをさらに大きな石で割って「砥石」を作っている。その間、友だちの何人かは日能研やサピックスで勉強をしている。ある程度、学力に差が出るのは仕方がない。
とは言え、良い成績が取れているならそれに越したことはない。ほとんどが「良い」という通知表を手に取ってみた。3段階評価である。「大変良い」「良い」「もう少し」。なるほど、たしかに半分以上が「良い」である。言い換えれば、半分以上は「大変良いではない」ということになる。
通知表から顔を上げて長男を見る。にこにこして僕を見ている。「うん、たしかにほとんど良いだ。良かったね」と声をかける。「小欲知足」という言葉が浮かんだ。同じ成績表でも「大変良い」がなかったと不満に思うことも出来し、「良い」がほとんどだったと喜ぶことも出来る。どちらが幸せか、どちらが満たさせているかは明らかである。
もちろん、そんなことをしていると将来しっぺ返しを食らうことになるぞ、と思う人たちも多いだろう。あるいはそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。先取りの詰め込みの時間よりも、満たされた表情をしている時間の方が(少なくとも小学生くらいの段階では)必要だと僕は思う。