とんびの視点

まとはづれなことばかり

三十にして立つ

2011年06月27日 | 雑文
先週のランニングは36キロ。(そして今月ここまでの合計がちょうど100キロ。少ないなぁ)。週の頭、指を切って走れなかったことを考慮すると、1週間では悪くない数字。昨日は特に疲れた。7キロほどランニングをし、プロボクサーのミットを受けるなど2時間近くボクシングの練習、そして7キロほどランニングをして帰宅する。そのうえ練習には子ども2人が同行。小学5年の長男は良いとして、次男は1年、まだ自転車の運転がおぼつかない。

次男の自転車をケアしながらのランニングになる。信号、四つ角、段差、すれ違う人たち、そんなものを意識しながら次男に指示を出す。時おり、ハンドルが取られて倒れそうになるのを支えることもある。行きは体力も集中力もあるから良いが、帰りは大変だ。子どもたちも練習場で人型のサンドバッグを相手に大格闘。大汗をかいて、体力を使い果たしている。その状態で再び自転車で50分くらい走ることになる。

長男ですら少しぐったりしている。次男に至っては目の焦点が合っていない。「ねむい」と言いながら自転車をこいでいる。時おりハンドルが「ぐらっ」と取られる。1度などはそのままシャッターに突っ込んで転んだ。それでも合気道で受身をやっているのでケガはない。仕方がないので、僕が次男の首をつかんで自転車を押し進めながらランニングをする。かなりの負担だ。いずれにせよ、夏場に向かって意識的にランニングをしなければならないだろう。

村上春樹の古いインタビューを読んでいたら、30歳成人説を一人で推進していると書いてあった。「今の世の中で、20歳で成人するのは不可能だ。30歳で成人だと思ったらどうですか」と折りに触れて言っていたらしい。じつは僕も30歳成人説をとっている。仕事柄、20代の話を聞くことが多いが、彼らの多くは、現在を上手く捉まえられずに将来のことを心配したり、変に慌てたり、焦ったりしている。そんな時、「30歳までに何とかすればいいんじゃないか」というようなことを言う。

僕の30歳成人説は村上春樹の影響を受けているかもしれないが、考え方は『論語』の「三十にして立つ」からきている。「吾れ、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。」という有名な言葉だ。

この「三十にして立つ」を「独り立ちすること」と捉えて、30歳成人説としているわけだ。しかしこれは、僕がすでに40歳を超えているから言えることだ。自分が10代の後半、あるいは20代ならこれを30歳成人説と受けとることはできなかったろう。10代の後半から20代にかけては、多くの人が自分の人生や世界について迷ったり悩んだりするものだ。そんな時に「三十にして立つ」という言葉を読んでもピンと来ないにちがいない。

でも振り返ってみると『論語』のこの言葉はけっこう当たっている。「学問を志した」とは言えないが、15歳くらいで自分と世界の関係に決定的な方向性が生まれた気がする。主体的に学問を志したのとは違うが、僕の人生がある方向を持ったことは確実である。そして30歳を前に本当の意味で自分を引き受けた気がする。自分なりに「立った」わけだ。そして40歳になり「惑う」ということがなくなった。

そう考えると、孔子の言葉はある種の慰めにもなる。天命を知るのが50歳でよいとされているからだ。日々、惑うことなく過ごしているが、それでも「いったい自分は何をやっているのだろうね」と思うことがしょっちゅうある。何か他に大事なことがあるんじゃないかと思う。(具体的に何かと考えると特にはないのだが……)。

そういう時、50歳になれば「天命」がやって来るのだろう、と思うことにしている。そう思うと、何とかなるさと気楽になる。先のことは先のことだ。そして天命が来た時に、きちんとそれに応えられるように「惑うことなく」今を過ごせば来。日々、コツコツとやっていれば良いのだ。そう思って日々、コツコツ、ランニングをしようというのだから、本当に気楽なものである。