とんびの視点

まとはづれなことばかり

相反するものを抱え込むこと

2011年04月15日 | 雑文
月末の引っ越しに向けてどのくらいやることが残っているのだろう。先日、改めて考えてみたら山ほどやることが残っていた。準備しているつもりだったが追いついていない。あと2週間はこれまで以上に忙しくなりそうだ。

震災以後のブログで、もし原発の問題がなければ、1ヶ月も経てば東京の人間の多くにとっては地震や津波は過去のこと、他人の問題になっているだろうと書いた。しかし原発のトラブルによって、東京の人間は今回の震災を他人事と言えなくなっている。直接被害を受けているわけではないが無関係とも言えない。今回の震災は、私たちがこのような中途半端な状態を抱え込まざるを得ないことを自覚させてくれる。

震災以後、世界中の国々から「日本を救え」との声が上がり、義捐金なども集められた。金持ちや生活に余裕がある人たちだけではなく、貧しい国の人たちも少ないお金を日本のためにと募金している。孤児院の子どもが募金を考えたり、お金のない人がツナ缶を持ってきたという話しも聞いている。

そういう話しを読むたびに、困った人を助けたいという行動にちょっと心動かされると同時に、違和感をもつ。「日本を救えと言って、貧しい人がツナ缶まで持ってきてくれる。でも僕はそれほど困ってはいないよな」と。もちろん、ツナ缶は僕のために提供されたのではない。あくまで困っている日本を救うためであり、受け取るのも僕ではなく日本である。

日本を一つのまとまりとして見た時には困っているといえる。そこに対してツナ缶を提供してくれるのはありがたいことだ。しかし日本人それぞれを考えてみると、ツナ缶一つに困っている人もいるし、買い占めによって食べもしないツナ缶を抱え込んでいる人もいる。

「日本を救え」とツナ缶まで差し出してくれる人がいるみたいだが、(日本人である)僕はそれほどの被害者ではないよな、と戸惑う部分がある。(この戸惑いの原因は、お金がないのでツナ缶まで提供して日本を救おうと思っている貧しい人がいる。相対的には明らかに豊かな僕を含めたかなりの日本人はツナ缶に類するものを余分に持ったままでいる、という後ろめたさでもある)

ここから日本という国家と日本人という個々人のズレを問題にすることも出来る。しかしここで指摘したいのは、僕自身が大した被害も受けず被害者としての実感がなくても、外国からすれば被害を受けた日本人として(十把一からげに)見られているということである。主観的に捉えた自己像(自分でそうありたいと思っているもの)と、関係によって作られた像(外から張られたレッテル)にズレが生じているということだ。これはある意味、原発のせいで東京の人間が今回の震災を無関係と言えなくなったのと同じだ。東京にいてそれほど影響を受けていなくても、震災で被害を受けた日本人としてのレッテルを(自分勝手に)はがすことは出来ないのだ。

同じ図式は、汚染水を海に流すという行為にも当てはまる。あの行為について多くの日本人は「何てことをやってくれたんだ」という気持ちになっただろう。怒るまではいかなくても、困ったことだとは思っただろう。あの行為を見てほとんどの人が「やられた」という受身の感覚を持ったはずで、「やった」と能動的な感覚を持った人はないだろう。その意味で、汚染水を海に流した件については、加害者は東電などでほとんどの日本人は被害者である。

しかし諸外国からすれば、「日本が汚染水を海に流した」ということになる。つまり日本を一つのまとまりとして見た時に、諸外国からすれば日本は加害側である。しかし多くの日本人は加害というよりは被害を受けた側として受けとめているだろう。つまり主観的な自己像としては被害者だが、外からは加害者としてのレッテルを貼られかねない。汚染水の問題でも、被害者と加害者という、相反する2つのものを同時に抱え込むことになる。

外国からの援助に当たって、貧しい人からツナ缶をもらうほど困っている人と、震災の影響もなく食材も余っている人が、日本人であることによって相反する2つのものを抱え込むことになる。汚染水を水に流すことでも、困ったことをされたと感じる人と、外国から困ったことをしてくれたと言われる人が日本人であることによって相反する2つのものを抱え込むことになる。日本人は震災の被害者でありながら、汚染水を海に流す加害者という、相反するものを2つのものを抱え込んだ存在である。

今回の震災によって、個人の好むと好まざるとに関わらず、私たちは相反するものを同時に抱え込まざるをえない、という事実を突きつけられている。相反するものを目の前にした時に、そのどちらかを好きに選べることが自由である。とか、相反するものを目の前にした時に、自己責任でどちらかを選ばねばならない。こういう単純な二分法が現実の世界には通用しないということがあらわになってきたのだ。(急にそういう世界になったのではなく、ずっとそうだったんだけどね)

相反するものを同時に抱え込みながら、どちらかを排除するのではなく、次に繋がる可能性を見いだすようなやり方が必要とされているのだ。