とんびの視点

まとはづれなことばかり

今年も桜が咲いた

2011年04月03日 | 雑文
桜の花が咲き出した。ベランダから見下ろす桜並木がつぼみの赤っぽい色でぼんやりとし、その中に薄いピンク色の花がちらほらと咲いている。何度も見てきた風景だが、今年は受け止め方が違う。どこかで原発のことを考えているからだ。

今回の原発問題の厄介さは、解決方法がそのまま次の問題を作り出してしまうという点だ。原子炉を冷やすための水を注入すると、そのぶん放射能に汚染された水が海に流れ込む。水を注げば原子炉は冷える。その意味で解答ではあるが、それがそのまま汚染した水を海に流すという問題を作り出す。

復興自体も同じである。復興という言葉は元の状態に戻すということである。つまり社会を震災以前の状態に戻すことだ。ところが震災以前は原発によって支えられている社会でもある。復興することはばら色の解決ではなく、今回のような問題が再発する可能性を抱え込んだ社会をもう一度作ることになる。

個々の人間という観点から言えば、生きることは問いに答えることだと思う。自分の問い(誰かに背負わされたり、自分で選び取ったりしたものだ)と出会い、試行錯誤しながらそれに答える。答えることにより新たな状況が生じる。そこからまた新たな問いが出てきて、試行錯誤してそれに答える。そんなことを続けられる限り続ける。

その意味では「解答がそのまま次の問題になる」という原発の問題は、その様式自体は目新しいものではない。どちらかといえば、原発を作るということが電力不足やエコ問題への解答であるという観点だけを採用して、それが新たな問題を作り出しているという認識が弱かったことだろう。こういう認識が成り立つのは、問題を局所的なものと切り出してその解答を探しているからである。とりあえずの解答をその問題が持っている本来的な広がりへ投げ返すことが必要なのだ。

「あらゆる解答はそこで終わりではなく、新たな問いを作り出す」。この事実を忘れないようにしなければならない。そう考えれば、いま私たちの周りにあるすべての物事から違った情報を手に入れることが出来る。解答済みで問題なく見えているものの潜在的な危うさを先取りすることが出来る。私たちを困らせている現在の問題が新たな状況を示唆する可能性となる。

何よりも「解答が問いを作り出す」ということを自覚していれば、将来どんな問いと向かい合いたいかを考えてから、現在の答えを出すことが出来る。そのようにして現在と将来を一つに重ね合わせながら出来事を一つ一つ作り上げていく丁寧さが必要なのだろう。桜が毎年、一つ一つ花を咲かせるように。

コメント
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