とんびの視点

まとはづれなことばかり

地鎮祭

2010年12月11日 | 雑文
12月もあっという間に3分の1が過ぎた。12月に入り忙しさが一段落した。一段落してやったこと、それはランニングだ。1月末の館山若潮マラソンを考えるとあまり悠長な練習はしていられない。ゆっくりと2時間半ほど土手を走る。

頭の中を雑念が駆け巡る。気になっていることが断片的な言葉や映像となり、しばらくのあいだ頭の中を占拠し、そして去っていく。1時間もすると雑念をとどめる力もなくなり頭が空っぽとなる。

すると青い空とか、遠くの川面に反射する光とか、風に揺れる柳の枝とか、少年野球の声とか、そういうものがすっと入り込んできて心地よい。空っぽな器にしかモノは入れられないということか。

2時間近くなると身心ともにストレスを感じる。脚は痛み、体が重くなる。すでに走った時間を振り返り「もうこんなに走ったのに」と思い、残りの時間を思い「まだこんなに残っているのか」とうんざりする。ただ走っているというその瞬間に自分をつなぎ止めることが出来なくなっているのだ。こういう思いをしながら何度か走ることになるのだろう。

忙しさが一段落したのは、先週の土曜日に地鎮祭を済ませたからだ。今年の春ごろから家が本格的に手狭になってきた。子どもたちがすくすく成長しているからだ。そして成長はしばらく止まりそうにない。真剣に引っ越しを考えることになった。生活圏を変えたくないので近場で探して、ついに猫の額のような土地を手に入れた。

古屋が壊され更地になる。更地という言葉の響きから、モノひとつない真っ平らな土地をイメージしていたが大違いだ。土地はデコボコで、土に石ころが混じっている。解体の時に割れた窓ガラスの破片や、プラスチックのかけらのようなモノもある。誰かが不法投棄した傘や、隅っこには野良猫の糞なども落ちている。そのうえ雨が降れば水たまりも出来る。レジャーシートを敷いて座ろうという気にもなれない。

そんな土地で、天祖神社の神主さんが地鎮祭を行なってくれた。友人でもあり大学時代の先輩でもある夫妻だ。笹を四本、長方形になるように立てる。その周りにしめ縄を結び聖域を作る。真ん中には祭壇を作り、季節の野菜や果物、お神酒を供える。

祝詞をあげる。我が家の人間たちが良い家を建てられますように、工事を行なう人たちにケガがありませんように、と。祝詞をあげる姿を見て、すごくプリミティブな人間のありようを目の当たりにしている気がした。この世界は人間の思い通りにならない。その時、何者かに自分たちの願いを聞き届けてもらいたいという思いに駆られる。どのように頼めば相手が願いを聞き届けてくれるか分からない。分からないから、こちらが出来る最大限のことをする。そこに儀礼が発生するのだと思う。何かを頼む時、スマートフォンの画面を見ながら「ちょっとやっといて」という訳にはいかないのだ。

祝詞をあげた後、白い紙片とお米を撒く。風に乗ってひらひらと地面に落ちていく。落ちるごとに、あの薄汚れた更地が浄化されていく。空気はクリアになり、土地は白く美しくなる。それはちょっと感動的な光景であった。

儀礼というのは形骸化しやすいと言われる。でも形骸化しやすいのは儀礼ではなくそれに関わる人々の方なのだ、そう思わされた。きちんとしたお祭りをすれば土地は変わるのだ。これは今年目にした出来事で1番印象に残ったことであり、強く感謝の気持ちをもった出来事だ。

そんな風に地鎮祭を終え、一息つき、ランニングをした。数日後、再び土手に行くと10メートル近い北風が吹いていた。体力を削り取るような風に向かって走る冬のランニングの幕開けだ。
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