昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

女子教育のあるべき姿とは

2005年10月31日 | Weblog
 これもまた「静岡新聞の記事」の請け売りであるが、「女子教育」を考えるうえで貴重なスタンスを再考させられる貴重なカナダの教育者の意見に耳を傾けてみたい。

 留学フェアのために来日したカナダ・トロントの私立女子高「ビショップ・ストローン・スクール」のマリア・ラドフォード副校長の女子教育の意見とは:

 この方の学校とは四歳の幼稚園から高校まで一貫して女子だけを教育しているらしい。カナダにおいても、男女共学校が多勢を占めているのだが、女子教育を実践している方にも、それなりの確固とした教育理念というものがある。

 『所詮、男女という性差がある以上、体格の差であるとか生理の差あるいは脳の構造自体の差などが歴然として存在することを、先ずもって認識し、それが社会においての男女の役割分担という形で社会が形成されているという前提に立って教育が考えられるべきだ』と私は思うのである。

 そこで、女子校の意義とは、「男子と女子では、異なる学習方法で教育した方が、どちらにも良い結果が期待できると思う。例えば、聴覚の差。女子はじっと先生の話を聞くことは得意だが、先生が大きな声を出すと集中力が損なわれる傾向がある。男子が、大きな声を出す先生に教えられてもさほどこたえないと対照的だ」という。また女子は人と人とのつながりを大切にすることも特徴である。
 「男子は競争によって意欲が高まるが、女子は競争が激しすぎると、意欲をなくしがち」との理由で、女子はグループで強調して教えあいながら学習に取り組む方が効果が高いとみる。
 特に、数学のグループ学習の重要性というのは「男子は一人一人が紙と鉛筆で問題を解いていくのが得意。これに対して、女子は話し合う事で問題を解決していく傾向がある。我が校では四人グループで、討議しながら解決策を見つける授業をしている。更に、最初は控えめでおとなしい生徒も、全員の前でスピーチし、クラブや学校活動のリーダーとして、活動する場が多いので、自信を持つようになり、能力を開花させる事ができる」・・・とこのように仰せである。

 『このように、女子教育専門校だけが、女子教育のすべてと言うことでもないであろうが、現在日本で推進されている「ジェンダー・フリー」などという馬鹿げた価値観による少子化へ向けての偏向教育だの、理念なき「男女参画社会の実現」だのは、「本来、男女の性差」と言うものを前提条件として認識し、その前提に立っての価値観に基づくものであるべきだと思うのであるが、如何なものか?』
 
 

改革貫徹に向けて

2005年10月31日 | Weblog
韓国メディア、安倍・麻生氏の起用を強く批判 (朝日新聞) - goo ニュース

そういえば、某全国紙が「靖国参拝議員はお断り」と、まるで国会議員が靖国神社を参拝した日には、戦争でも仕掛けられるが如き論調で人心を煽っていたが、醒めた論調にも目を向けてみよう。

 日韓の国会議員による親善サッカー試合をめぐり、韓国側が靖国神社に参拝した議員の参加辞退を申し入れていたことが三十日分かった。
 韓国の国会議員サッカー連盟の会長を務める与党、ウリ党の張永達議員によると、五月から延期されている試合を来月中旬頃に行おうとの提案が日本側からあった。張議員が「韓国内の国民感情もあり、靖国神社に参拝した議員は参加を遠慮してもらいたい」と条件をつけたところ、日本側は「参加議員が少なくなるがよいか」と回答したという。(静岡新聞より)

 何処かの新聞が騒ぎ立てるほどの「問題」はないのである。日本側は、「ならば、止めれば良いではないか」と感情的な返答は避けて「参加議員が少なくなるがよいか?」と言ったのであれば、それはまさに、大人の対応をしたということに他ならない。

 安倍官房、麻生外務と言うのも従来の「対中・朝・韓御用聞き外交」から脱却して、本来あるべき「自主外交」を目指す人選であろう。今後に期待したい。

 意外に手堅い「アンサプライズ」実践内閣である。

至上の召使い

2005年10月30日 | Weblog
韓国外相、首脳会談「靖国参拝せずが条件」 本社と会見 (朝日新聞) - goo ニュース

 中、朝、韓にとって、これ程有能な「お召使い」は、世界広しと雖も外にはいないだろう。日本においては「チョウニチ」などと揶揄されているのも「なるほど」と、妙に納得させられるのである。

 至上の「お召使い」の主なお仕事は「日本政府」に苦言を呈しても相手にもされない時、「お召使いの記者」を呼びつけ、「さんざんに愚痴る」のである。
 すると、効果はテキメンである。「相手の身になって、それこそ200パーセント日本悪のコマーシャル」を繰り広げるのである。
 
 先日、同業他紙が「戦没者追悼施設の予算計上を韓国の外相が公式に要求するのは内政干渉だ」と報道すれば「そんな事は発言したことはない」と、身代わりとなって弁明させていただく程の「用意周到」ぶりである。

 しかし、それ以上に驚かされることは、相手(韓国)などの「お立場」に立ち、「小泉首相の靖国参拝で韓日関係(日本の報道メディアであるなら当然日韓関係と書くべき)が再び凍り付いた」と伝え、更に「韓日の未来の発展」のみならず「北東アジアの共同繁栄」「国際社会の指導的国家としてのあり方にも影響するという面から、参拝は望ましくない」との考えを示した。

 まことに、裁判官たる韓国が被告人たる日本に判決を言い渡すが如き、書き嬲(なぶ)りようである。

 この新聞に「主権国家日本の報道機関」たることを「自覚」せよなどと弄しても、もはや中国人に「犬を喰うな」と言うくらいに不可能なことである。(これは「大芝居」の中にも書いたことがある)

 そして、極めつけは、たとえ新追悼施設ができても「首相が靖国神社を参拝すれば意味が無い」とのたまうのである。

 まったく、日本国と日本人をコケにするにも程度があるというものである。

 『これが、日本人が「日本を代表するメディア」などと幻覚を見ているものの「正体」である』
 早く、マリファナ中毒で幻覚を見ているが如き惨状から覚醒すべきなのである。

海行かば

2005年10月29日 | Weblog
 国の行く末を案じる武士(もののふ)の一人として、若者にお願いするのであるが「うみゆかば」と読んでもらいたいものである。

 海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(くさむ)す屍

 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ

 この詩は、万葉集巻十八の大伴家持の長歌の中の一句である。
 通常、「海行かば」といえば、この詩に曲をつけたものをいう。作曲者は信時清(のぶとききよし)であり。1937年(昭和11)に作曲したものです。
 奇しくもこの年に日中戦争が始まって、戦争映画等で戦死者を前にしてこの歌が歌われるシーンが殊更強調されたりするから、「日本軍国主義」を強調する歌として、左翼陣営即ち「売国奴」達が盛んに攻撃するのである。

 しかし、「中共」などに恋焦がれて一生懸命に媚を売っている「和製中国人」の主張などに惑わされることなく、この詩を「文学作品」として味わうのも一興である。

 壬申の乱あたりの戦闘の状況が題材となっているのであろうか?

 海に行き戦いに臨めば水に漬かる屍となるかもしれない
 山に行き戦いに臨めば草が生える屍となるかもしれない
 いずれにしても、大君(天皇)の傍で戦い命尽きよう、そうすることに、私はまったく悔いは無い 

 海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 この対句を海行かば水漬く屍となろう、山行かば草生す屍となろう。このように意志を込めた解釈をする向きの方が多いのかもしれないが、私としては、過去の経験からの冷静な予想的判断と解釈したい。
 大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ この一人称(私)の決意と対を成しているのである。

 大伴家持(おおとものやかもち):(717~785年)奈良時代の歌人。越中守をはじめ、中央・地方官を歴任、783年中納言となる。万葉集中歌数が最も多く、編纂者の主要人物とされている。

 万葉集:現存する日本最古の歌集。前二十巻。編者、成立年代とも不明であるが、全巻の完成は8世紀末。大伴家持が編纂に関係したことは確実。
 総歌数4500首に及び、身分の高い者から庶民に至るまで、様々な歌が収められている。国民的な歌集である。

  

歴史再認識(第十話)

2005年10月28日 | Weblog
asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-社説

 話が前後してしまって、いさささか恐縮ではあるが、先の大東亜戦争に敗れた直後の話をこの機会にしておこう。

 その前に、世の中には実に「ユーモラス」な人たちがいるものである。彼らは実に諧謔精神に富んでいる。因みに、先ずGoogleサイトを開いた後に「売国新聞」と検索されることをお勧めする。

 このような文章を、卑しくも「社説」などという形式において公然と発表し、「純真無垢な日本人」を恫喝しようなどと、もはや発狂寸前の状況に追い込まれたものとお見受けする。これ程、低濃度の放射性物質を日本の国に振り撒く前に、かの国に対して、「貴方方が、反日暴動を起こす能力がないから、わが社の立場がなくなるではないか、貴国はわが社を裏切るのか」と、このような恨み言を「共同通信社」に依頼して打電してみたら如何なものか?。

 このパロディーが理解できない「読者」は勉強が足らないと自覚すべきである。「彼の国に軒を貸さば母屋まで獲られる」という「生き字引」が既にこの日本において存在する事を日本国民はその心に深く刻み込むべきである。

 我国が大東輪戦争に負けたのは1945年8月15日である。8月25日に、戦勝国連合のダグラス・マッカーサーは厚木飛行場に降り立ち、東京軍事裁判の被告達の捕獲を命じました。とにかく「戦勝国側」は戦争犯罪人狩りに狂騒したのであった。
 
 敗戦国の煎じ指導者を「犯罪者」であると戦勝者側の理論で裁く事は、当時の国際法からしても異常なことであった。実は、日本人を裁いた戦勝国側が国際法違反であったのである。

 今、フセイン大統領が同様の裁判に遭遇しているのだが、アメリカ主導の裁判に対して、世界中から多くの同情と疑問が寄せられているのは周知の通りである。

 当然、当時の日本の立場に対して、有名なインドのパール判事であるとか、当のアメリカ人弁護士、アメリカの政府高官、GHQ幹部の中にさえ「たとえ、戦勝国の国策とはいえ、国際法違反をすべきでない」とこの東京裁判を批判する人たちもいたことを今一度日本人として「認識」すべきである。

 ロバート・A・タクト上院議員なる人も、1946年10月5日ケニヨン法科大学の講演で、東京裁判について「勝者による敗者の裁判はどれほど司法的な体裁を整えてみても、決して公正なものではありえない」と講義しました。

 また、当時の著名なアメリカの外交官であったジョージ・ケナン、この人は反共封じ込め政策を立案実行したのですが、(日本は元祖反共のために戦った国だと評価したのかもしれないが)彼が国務省政策部長だった1948年(昭和23年)に来日し、対日占領政策について詳しい報告書を書いている。
 そのなかで、「東京裁判は正義とは関係ない。また、そういう勝者による敗者に対する制裁を東京裁判という、イカサマな法手続きで装飾すべきではない」として、東京裁判を実行したマッカーサーの対日政策を激しく非難しているのである。

 こんな「いい加減な裁判」を所謂「敗者の立場の日本人」が金科極上のものとして、崇め続けていることは、世界広しといえども天下無双の珍事であろう。『自らを己が手で貶めてそれを安住の地だと思い信じて疑わない』。それこそ、未開地の原住民にさえも腹を抱えて大笑いされていることであろう。

 イギリス人に征服されたアメリカインディアンも「たとえ征服されたとはいえ、我が祖先は勇敢であった」と先祖の武勇伝の一つも語り胸を張るであろう。

 『民族の誇りとは、そう言うものであるべきだと思うのだが、違うのか?』


究極のサイクルは実現するか

2005年10月27日 | Weblog
 以前、常温核融合というお騒がせがあったが、今回はその轍を踏むものでないことを希望するものである。

 究極のクリーンエネルギー製造原理というべき「水素製造method」の公表に関しての新聞報道に対しての思いを述べるものである。

 青色発光ダイオードに使われる窒化ガリウムの半導体に光を当てると光触媒として作用して水から水素を発生させることを東京理科大の大川和宏助教授らの研究チームが実証した。
 26日、窒化物半導体の結晶化で共同研究を進めている米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授とともに発表した。
 中村教授は「二酸化炭素を出さないクリーンエネルギーの開発という点で非常に有望な成果だ」と話した。
 大川教授らは、水の中に窒化ガリウムと白金を入れ、(両者の間に一ボルトの電圧をかけ)水素が発生することを確認した。
 光エネルギーを水素エネルギーに変換する効率は0.5パーセントだった。光触媒として実用化が進んでいる酸化チタンに比べると効率は四分の一だが、研究チームは「改善すべき点は見えており、三年後には酸化チタンの十倍の効率を目指したい」としている。
 水素は燃料電池の燃料となり次世代エネルギーとして期待されるが、多くの場合は製造過程で二酸化炭素が発生する。
 光触媒の高効率化が実現すれば、二酸化炭素を出さない究極のクリーンエネルギーが得られる。大川教授は「高効率化への課題は、半導体にインジュウムを添加して、きれいで大きな結晶を作ること」と話している。(10.27産経新聞より)

 この記事でなんだかおかしいと思ったことは、白金と窒化ガリウム電極の間に一ボルトの電圧をかけたということであるが、それならば、中学校の理科で学習した電気分解と同じ原理であって、片方の電極から水素が発生して当たり前である。

 そこで、他紙に同じ記事が無いかと調べてみたら、単に両電極を銅線で繋ぎ電流計で測ったら、どうも微小電流が流れて、白金電極から水素が発生したということらしい。

 この段階では、光源にクセノン電球を用いたということであるが、将来の課題は、所謂可視光線(太陽光)でこの化学反応を誘引できるようにするのが課題であるという。光も一種の波動である。現在の試供物質では、ある特定の波長の光線(電磁波)にしか反応しないようであるが、将来、太陽光によって反応する元素が見出されるなら、人類にとって、戦争の無い世界をもたらすものとなろう。

 一小市民が思うことは、このような人類の将来を決定ずける可能性のある研究に対しては、精査の上、見込みがあると判断できるなら、国は、惜しみなく研究資金を投入すべきである。

 それにしても、東京理科大の共同研究パートナーの中村修二氏は優秀な科学者であるが、先般、「日亜科学」との間で繰り広げた発明者の権利の主張訴訟問題が頭にこびり付いて、日本政府としても、迂闊に手出しはできないかもしれない。

 触媒とは:その元素自体が化学反応に関わるものではないが、それが存在することにより、化学反応を増進する元素をいう。多くは元素記号の大きい安定元素で、白金とかバナジュウムがある。これらの元素は太古の時代に生命の発生にも大きく関わって来たにちがいない。

 

里親制度とは

2005年10月26日 | Weblog
 世の中に、里親制度なるものがあることも知らなかったとは、何と世間知らずな我が身であることか。
 十月は「里親月間」だそうである。「里親」とは他人の子を親代わりとなって育てる人をいう。

 里親制度:親の病気や経済的な事情、虐待など家庭環境に恵まれない子供を養育する制度で、児童福祉法に基づいて戦後にスタートした。
 里親たる資格は、「心身共に健全であること」「経済的に困窮していないこと」「児童買春罪などで罰金以上の刑に処せられたことがないこと」などである。
 都道府県に登録した後、児童相談所を通して里子を委託され、原則高等学校を卒業するまで里子の養育に当たる。その間、国や都道府県から手当てや生活費が支給される。

 静岡県では、今年六月現在で、389人の里親が登録されているのであるが、稼働率は16.2パーセントの低水準である。
 この原因というのは、親権者(多くは母親をいうのであろうが)が「里親よりも、施設で育てたい」という希望を持っているからだという。
 施設で預かるか里親に委託するかは児童相談所に決定権は有るのだが、親権者の同意が必要なため、勢い施設で養育という事になるらしい。また、里親側にも出来るだけ低年齢の子供を養育したいという希望が潜在的にあって、その実はあがらないらしい。
 里親としても、所謂「反抗期」の年齢に達した子を預かる自信はもてないであろう。(何故なら、我子でさえ反抗期を迎えた子を育てるのには、手古摺った苦い経験をしたはずである)
 また、親権者としても幼い子を里親に預ければなんだか取られてしまうような不安に駆られるのであろう。
 とにかく、人様の子を育てるというようなことは、並大抵の覚悟では出来ないと思う。

 現在の忌忌しき世相に於いては、虐待を受ける児童の数は十年前の十三倍にも増えているという。しかるに、静岡県内の乳児院の入所率は約八割、児童擁護施設は九割に達していて、余力はなくなっている。そんな訳で、厚生労働省は児童虐待の増加に対応する為、平成十四年に「被虐待児」を専門に養育する「専門里親制度」を新設したが、資格要件も多く、研修期間も長期に亘るため、県内の要録者は五人にすぎないということである。

 国も里親の重要さを再認識し、平成二十一年度までに総数の十五パーセントを里親に委託したいとしているのだが、現在の静岡県の委託率は9.5パーセント(全国の平均8.1パーセント)と目標値までは尚遠い道のりである。

 世の中には、この殺伐とした世相にあっても、里親となって人助けをしている人も居られるのであるから、日本も捨てたものではない。何とも頭の下がる、心温まる話である。(10・19静岡新聞を看て)

  

待たれた公式見解

2005年10月26日 | Weblog
靖国問題で政府答弁書決定 「戦犯」は存在せず 公式参拝であっても合憲 (産経新聞) - goo ニュース

 民主党の野田佳彦国対委員長は、よくぞこの質疑を発議して下された、まさに「ア・ウン」の呼吸でこの政府公式見解が発表されたことを重く受け止めなければならない。

 これこそ先の、中韓反日議員連盟が靖国参拝反対、無宗教の追悼施設建設促進などと害国に媚続ける国内の反日国会議員への応酬である。これこそ「小泉維新」たる真骨頂である。
 呼び水を送った民主党の国会委員長こそ、これからの日本国のあるべき姿に道筋をつけた功労者として、永くその功績を日本史に名を刻まれるべきであろう。
 
 今まで、負け犬根性を至高の国是としてきた戦後の所謂文化人と左翼及びカルト集団に対して、確固たる日本人としての「意志表示」を表明したものである。

 このような、国内外の対日本国破壊工作を目論む勢力に厳とした態度を表明したことを喜ぶのは、私だけではあるまい。

 この、声明に反して靖国神社参拝に異を唱えた人物はおそらく次期内閣改造においてポストは無いであろう。これは、まさに小泉流不良人材自然淘汰法による「ふるいわけ」作業の一環である。

 小泉首相は、先般「昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵」と生徒達を前にして粛々と講義したではないか。
 政局を読めぬ者は、「自分で己が首を括るが如き政治不適格人」と心得るべきである。

論功交渉とは売国か

2005年10月25日 | Weblog
国立の戦没者追悼施設の建設議連、自公民3党が合意 (読売新聞) - goo ニュース
 
 最近頓に思うことは、国政選挙の際、立候補する者は、対中朝韓に対するスタンスについて、「護国」の立場を取るのか「売国」の立場を取るのか、はっきりと意思表示してもらわないと、国民が祖国防衛の立場で投票したつもりでも、いつの間にか国家が中国などに「売国」されていたなどと判明するような事態に貶められたのでは、たまったものではない。

 反中朝韓が全てではないにしても、気骨ある日本人がどのように国を思っているか考えてもらいたいものである。

 静岡新聞の投書から抜粋引用させて頂くことにする。
 「靖国参拝非難策略に乗るな」(森町在住、団体職員80歳の方)
  
 A級戦犯の合祀を理由に、十七日小泉首相の靖国参拝に対し、中国が猛反発している。この件に関して、考えを述べたい。
 東条英機大将をはじめ、日本のために極東軍事裁判で死刑を宣告され、絞首刑となった七人の方の遺骨は、愛知県の三ヶ根山頂に祀られている。素晴らしい崇高な施設である。
 私もその「殉国七士墓碑」こそ、七士の安住の地であると、先日参拝した。そこには、七士を敬慕する全国各地の戦死者の碑が建立され、この七士の碑を取り囲んでいる。
 現在、中、韓のみが外交カードに、首相の靖国参拝を、鬼の首を取ったように利用していることは明確である。その術策に嵌まってはならない。
 三十年前、日中国交回復の時、中国は靖国神社のことには一言も触れていない。
 最近になって、中国の国内問題の処理の為に利用されている。
 「無宗教の追悼施設」などという、利用価値の無い施設建設に貴重な国税を使うことなどもってのほかである。・・・とこのように仰せである。

 山崎拓などという方、当選の経緯からして、公明党の出店が如き存在である。大体、創価学会などが所有政党たる公明党に無宗教の宗教施設建設などと戯けたことをいわせること自体、臍が茶を沸かすというものである。彼らが目指すものはそれこそ「政教一致」即ち憲法違反である。
 頭隠して尻隠さずが如き浅はかさである。もっと簡単に言えば「俺等は糞をたれる、しかしお前達は糞をたれてはならない」と主張しているのである。

 

春望(songzhao漢詩を学ぶ)

2005年10月25日 | Weblog
 春望 (杜甫作)    

 国破山河在 城春草木深   国破れて山河あり 城春にして草木深し

 感時花濺涙 恨別鳥驚心   時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨みては鳥にも心を驚かす

 烽火連三月 家書抵万金   ほうか三月に連なり 家書万金にあたる

 白頭掻更短 渾欲不勝簪   白頭掻けば更に短く すべてしんにたえざらんと欲す


 ある春の日の眺望

 故国の長安の都は破壊され、その城下は春を迎え草木は深々と生い茂っている
 今に至っての感傷であるが、花を観るにつけても、はらはらと涙をこぼし、家族との別れを惜しんでは、鳥が飛び立つ音にさえ怯えるありさまである
 戦火の狼煙はこの三月になってもなお続いており、家族からの手紙はそれこそ万金に値するものである
 白髪頭を梳かしてみれば、髪は更に抜け落ち短くなってしまい、冠を止めるヘヤピンも掛りそうも無い有様である

 お世辞にもよい訳とはいえないののであるが、中国版西行法師といったところであろうか。杜甫とは「漂泊の詩人」である。
 今は昔、唐の時代、時の玄宗皇帝が稀代の美女「楊貴妃」に現を抜かしていた頃の出来事である。

好ましいスタンス

2005年10月24日 | Weblog
首相靖国参拝 「反日」抑制、現実対応に 中国、経済交流の拡大重視 (産経新聞) - goo ニュース

 本来ならば、中道と評価されるべきメディアのスタンスが、中国や韓国の近視レンズを通せば、右翼ないし極右などといって非難されるというのだから、むしろ、名誉ある右派と誇りに思うべきである。

 ならば、取るに足らない他紙などは、この国において、どのように評価されるべきなのであろう。いっそのこと、「ミニ赤旗」あるいは「ミニ聖教」とでも呼ぶべきか。個性の無い事この上ないのである。中韓が喜べばそれが至上のことらしい。

 およそ、メディアなどと自負するならば、グローバルな視点で価値判断し、公正な立場に立ち、ニュースなり、時折々の事象を適切に、日本国民伝えなければならないという根源的な使命を帯びていると思う。こっちは購読料さえ支払っているのである。

 しかるに、チョウニチなどは、国家を捨てない限り成仏などおぼつかないがごとき話法で、無垢なる日本国民をたぶらかし、説法し続けるのである。

 哺乳瓶で保育される時からこのように耳元で囁かれたぶんには、自分が一体「何処の国の人間」かも定かなもので無くなるのである。(それが中共に国を開城する使命を帯びたものの努めである)

 そのような、一部の国民は自国語をアルファベットで書いたほうが世界に受け入れられるのではないかなどという馬鹿げたことを、本気で考え、実行してみようなどという気になるのである。

 負け犬根性が極限に達した今、我が大和の魂は、二千年の歴史に向って彷徨するのである。

 とにかく、産経新聞は、10年先の日本人の魂を先取りしているのだと思う、これは先祖帰りの風潮ではなく、次のステップの助走であろう。

 他紙も一度考えてみたら如何なものか。

生粋の和製中国人

2005年10月23日 | Weblog
 皆の衆におかれましては、今日あたり、季節が遅がけではあるが、秋から急に舵を切って、冬に突入したかのようである。日々お健やかにあらせられると存じ上げる。

 ところで、きょうの竹村健一氏がコメンテーターを努める「報道2001」をご覧になった方も多かろうと思う。

 番組中、生粋の和製中国人(加藤紘一)と本物の中国人連合対純粋日本婦人、櫻井よしこ姉のバトルを看て、どのような印象をもたれたであろうか、エセ中国人に少なからぬ絶望感とそこはかとない怒りの念をもたれた方が多かったであろうと察するのである。

 この和製中国人の票田には、中国人だの朝鮮人どもがとぐろを巻いて息ずいているのだろう。そうでなければ、このような国籍も分らぬ人間を日本国国会に差し出す訳はない。

 よしこ姉が、なんぼ気丈夫な女傑とはいえ、中国人2対日本人1で相手をするのでは、はなはだ気の毒な思いに駆られたのではないか。

 それこそ、中国共産党主席の「胡錦濤」もこのエセ日本人を評価して、北朝鮮の錦正日にする以上の賞賛を与えるのではないか。例えばこのように「あのイカレタ日本人こそ中共の鑑とせよ」・・・・このように言って憚らないであろう。

 まことに、下手な中国人はとても太刀打ち出来ないぐらいの和製中国人振りである。
 必ずや、中国から「大勲位」なるものが贈られるであろうが、まさかそれを日本国内で受賞の栄誉にあずかろうなどとお思いではあるまいな。

 それでは、和製中国人の経歴を看てみよう。
 1939年山形県鶴岡市生まれ、東京大学法学部卒業、官僚出身。
 中曽根内閣の防衛庁長官、宮沢内閣の内閣官房長官。
 一応二世議員の一人、当選回数12回。
 所属政党:自由民主党・・・無所属・・・自民党無派閥

 なにはともあれ、このような御仁が日本国首相にたる事は無いであろうから、素直に喜びたい。

老いたりと雖も鯛は鯛

2005年10月23日 | Weblog
Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 民主台湾の「顔」米国行脚 李登輝氏、中国一党独裁と対比

 李登輝先生も82歳になられるのか。それにしてもご健在ぶり益々もってお盛んであられる。「台湾独立、民主化の大御所」であるという気負いがこのような「大胆不敵な立ち振舞」の原動力になるのであろう。

 器が違い過ぎるのだから、比較にもならないのであるが、所謂、日本政界の長老といわれる人たちが何とも「小粒」である事か、実に嘆かわしい次第である。

 日本の長老達も日本国内では「我こそは大御所」という演技をなさっているのだが、一旦中国の前に出れば、まるで青大将に睨まれた雨蛙が如きみすぼらしさである。ただ怯えて「ブルブル」震えているだけである。

 それを見透かした青大将はたいした餌ではないが、無理難題を弄しさんざん甚振ってから食ってやろうということになるのである。

 「気に入らないなら、殺しに来い」ぐらいの勢いと、ハッタリ八分の話術と度胸がなければ政治家としての資格はないのだつくづく思い知らされる。

 日本の国民は、小心者に国を背負わせてはならないという教訓とすべきである。
 それにしても、いつも「李登輝サプライズ」である。実に見ごたえがあるのである。

 日本の他のマスコミもこのような方の「武勇伝」を堂々と記事に出来るようになってもらいたいものである。

還有個小泉迷

2005年10月22日 | Weblog
 静岡新聞の記事より:前韓国駐日大使 私人となられた雀相龍氏のことば

 ご自身がお書きになったものか、翻訳か分らないのであるが、日本人の脳裏に心地よく響くよう文章である。少し抜粋してみる。

 2005年9月は、日本と韓国で長く記憶されるであろう「緊迫の月」だった。11日の日本の総選挙と、19日の北朝鮮の核問題に関する六ヵ国協議の共同声明は、日本や朝鮮半島における明確な大転換の始まりということができる。
 小泉政権の圧勝は明らかに予想を上回るものであった。韓国メディアの反応は、話題を先取りする小泉純一郎首相の能力に対する高い評価、憲法改正の加速化など日本の右傾化に対する心配、そして日朝国交正常化に対する期待などに要約する事ができる。
 2000年に駐日大使として日本に赴任して以降、私は一貫して改革を志向する小泉首相に対し「変人」の代わりに「改革の人」と言う意味の「革人」というニックネームを差し上げ、首相と共に笑った事もある。

 『とまあ・・・かなりの対小泉好感度である。次に述べられるのは、韓国人のプライドをもって、小泉首相への期待である』

 (六ヵ国協議共同声明)この協議は六ヶ国がそれぞれの貢献をしたが、ブッシュ米大統領の柔軟性、北朝鮮金生日総書記の決断、そして両者の意図を見抜いたノムヒョン韓国大統領の調整能力が三位一体となり、議長国中国が粘り強く協議をうまく運営した結果ということができる。
 日本の役割が目に付かなかったという評価もあるが、私は今後の六ヵ国協議の履行過程で日本の役割に大きな期待をかけている。それは、まさしく小泉首相に対する希望でもある。
 おそらく、金正日総書記の日本側のパートナーにハト派がなることは難しいだろう。
 更に、小泉首相は二回の訪朝を通じて金正日総書記とパイプを持っている唯一の先進国の指導者だ。そして、首相は任期中に国交正常化すると明確に約束している。小泉政権の三大外交課題のうち、相対的に最も可能なのは、日朝正常化であると思う。言うまでもなく、拉致問題という大きな障害が厳存する。しかし、9.11総選挙で圧勝を生み出した力量で十分に克服できるとみる。
 日朝の正常化は六ヵ国協議の履行のために決定的な契機をつくるであろうし、世界は日本が世界第二位の経済大国見合う政治力を発揮したと高く評価するだろう。そして日朝の国交は、日本が本当に朝鮮半島の平和に貢献する担保となることは間違いない。
 小泉首相は、この機会を逃さないことを日本の友人の一人として切実に願う。

 『我が首相は、大変好ましい知己を得ていることを、一国民として喜ばしく思うものである。しかし、韓国人には、韓国人としての決して譲れない一線というものがある。そこのところを、どのように決着すべきか?
 私などは、価値観を敢えて同一化させようなどとしないほうが、返って両民族のためになると思っているのである。「この一点については日韓は決して意見の一致を見ない、だからこそ、我々は日本人であるし、貴方方は韓国人である。しかし、手を携えて前に進もうではないか」という。相互理解を醸成して行くことだと思う。
 しかし、以下のことを絶えず日本人に主張しない限り、韓国人ではなくなってしまうのである。神妙に耳を傾けるべきである』

 そうした期待にも拘らず小泉首相は、ついに10がつ17日、靖国神社を参拝した。彼は自らの参拝を反戦、平和の意志の表現と強弁するが、そのように考える人はほとんどいない。
 本当に植民地統治に対して反省と謝罪をし、韓国と手を結んで、この地域の平和を維持しようとするなら、最小限、靖国問題の日韓二国間の合意事項を守ろうとする誠意を示さなければならない。

 『韓国人が日本国首相の靖国参拝問題を主張するのは、その歴史にかんがみても、まったく解せないのである。日韓戦争などと聞いた事もないのである』

 

皆で歴史を学び直そう

2005年10月21日 | Weblog
皇室典範有識者会議に学者らが反発 緊急声明を発表 (朝日新聞) - goo ニュース

 先日の「皇位継承世論調査」に苦言を呈した記憶があるのだが、この「皇室典範に関する有識者会議」の所謂「有識者」たる構成メンバーにいささか思想的な偏りがあるのではないかという気がしてならなかったのですが、はたして、その結論に対して意義の申し立てをする「勢力」が台頭して来るとは、「事の道理」というべきである。

 先日の世論調査がアットランダムに抽出された、三千人に対して行われたアンケートに基づいて出されたものと報道により、聞き及んでいるのであるが、多分に戦後の押し付けられた憲法の価値観のみによって行われていると思う。

 ようやく、贖罪憲法を見直そうという空気が醸成されるに至ったのと時を同じくして、皇室においても、お世継ぎ問題が先送りを許されない事態となっているのだから、何とも遣り切れなさを感じるのは、私独りでは無いであろう。

 有史以来の日本の伝統に鑑み異議を申し立てる学者先生たちは、声を大にして、国民にも分るようにその主張の「正当性」を懇切丁寧に説明してもらいたいと思います。
 この国の伝統的「歴史観」は、大東亜戦争にただ単に敗れたというだけで、抹殺されてしまったのである。この際、今日本国が直面している「皇位継承問題」を機に本来の日本史とはどのようなものかを国民に知らしめて頂きたい。
 
 まともな歴史を再認識すれば、日本に新たな活力をもたらす原動力となるに違いないと信じて止みません。