負け犬の美辞麗句とは些かパロディックに過ぎるかもしれないが、この際である。歴史に白黒をつけるつもりで、国士たる『我』を通そう。
今日は、毎日新聞の記事を引用させて頂く。
6月6日、私立W小学校(東京都町田市)の会議室で、60人以上の父母がI校長(58)の公演を聞いていた。「教育基本法がなければ私はここにいなかった」I校長は47年、新潟の農家に生まれた。5人姉弟の末っ子で、大学に進学したのは自分だけ。「経済的な問題もあったし、高等教育を受けるという発想がなかった」と振り返りつつ、「基本法があり、戦後日本は誰もが高等教育を受けられる国になった」と続けた。
W小の姉妹校、WK小学校(世田谷区)の校長を務めたMさん(81)には忘れられない体験がある。
教育基本法が交付された47年Mさんは熊本師範付属中学の教師だった。校長が基本法を解説していた時、突然涙を落とした。「昭和18年・・・・ペンを銃に替えて戦場に駆けつける時ではないかと学生に檄を飛ばしました・・・・戦場に散った若者達に何とお詫びしたらよいか。私は戦争犯罪者です。そんな人間がどうして民主主義だの平和主義だの言えるでしょうか・・・・」
戦後の教育は、46年の米教育使節団の訪日から始まる。その報告書を受け、「二度と戦争をしない」との反省の下に、個人の尊厳を大切にする教育改革が始まった。その中心にあるのが教育基本法だ。誰もが等しく教育を受けられるようになり、高い教育水準を維持するのに役立った。
しかし、50年代から基本法の空洞化が始まり、現在の改正の動きに連なる。Mさんは「政府は『教育は重要だ』と戦後の出発をした。しかし、「教育は民族、国家を前提にしないと成り立たない」という保守的な考えになった」という。
現在は学力低下や不登校、ニートの問題など教育現場は問題が山積している。「こんな時代だから、現行教育基本法は必要です。ここに書かれている理念を生かさないと子供たちは不幸になる」。Mさんは10条の「教育は、不当な支配に服することなく・・・・」の部分を繰り返し読み、「絶対に手をつけるべきではない」と結んだ。(東京社会部、小野博宣氏の署名記事)
何と感動的な名文であろうや!と拍手喝采を求めたいのであろうが、なんとも女々しい文章であることか。誠に情けなく不甲斐なきことこの上なしである。
体制を批判するMさんは自己の直接体験に基づいた感情で物を言っているのではない。当時の先輩だった校長の演技にかこつけて自己逃避しているに過ぎない。この当時、強制されて戦場に赴いたふとどき者は一人もいない。戦争に行って死にたくないなどと思っていたのはMさんなどの一部の非愛国の士だけである。当時、若者に檄を飛ばしたという校長は、日露、支那事変などを身をもって体験したに違いない。しかし、このMさんは同年輩のものが必至で国を守ろうとしていたときにベロでも出していたかもしれない。戦争は国家、国民を揚げての国家事業である。時の卑怯者が国益に準じた同胞に対し、『犬死などと罵倒する』こと断じて許さぬ。
現業の基本法をそれ程こよなく愛するなら、何故教育の現場で破綻させたのか?甲斐性もなく破綻させた挙げ句に10条の「教育は、不当な支配に服することなく・・・・」の項を読んで感涙するのだと。もはや呆れて物が言えない。
日本政府が言う教育に対する不当な支配とは、無国籍の立場に立ち、国家、国旗国歌を蔑ろにするアホ集団が癌細胞が如くに増殖したことをいうのである。この事態を憂慮した政府は、そういう「不順分子=癌細胞」を一刻も早く北朝鮮や中国に追い払おうとするスキームを立ち上げたのであって、それが今回の教育基本法改正法案の提起なのである。
このM氏などは、素性は、カクマルの人士か?
今日は、毎日新聞の記事を引用させて頂く。
6月6日、私立W小学校(東京都町田市)の会議室で、60人以上の父母がI校長(58)の公演を聞いていた。「教育基本法がなければ私はここにいなかった」I校長は47年、新潟の農家に生まれた。5人姉弟の末っ子で、大学に進学したのは自分だけ。「経済的な問題もあったし、高等教育を受けるという発想がなかった」と振り返りつつ、「基本法があり、戦後日本は誰もが高等教育を受けられる国になった」と続けた。
W小の姉妹校、WK小学校(世田谷区)の校長を務めたMさん(81)には忘れられない体験がある。
教育基本法が交付された47年Mさんは熊本師範付属中学の教師だった。校長が基本法を解説していた時、突然涙を落とした。「昭和18年・・・・ペンを銃に替えて戦場に駆けつける時ではないかと学生に檄を飛ばしました・・・・戦場に散った若者達に何とお詫びしたらよいか。私は戦争犯罪者です。そんな人間がどうして民主主義だの平和主義だの言えるでしょうか・・・・」
戦後の教育は、46年の米教育使節団の訪日から始まる。その報告書を受け、「二度と戦争をしない」との反省の下に、個人の尊厳を大切にする教育改革が始まった。その中心にあるのが教育基本法だ。誰もが等しく教育を受けられるようになり、高い教育水準を維持するのに役立った。
しかし、50年代から基本法の空洞化が始まり、現在の改正の動きに連なる。Mさんは「政府は『教育は重要だ』と戦後の出発をした。しかし、「教育は民族、国家を前提にしないと成り立たない」という保守的な考えになった」という。
現在は学力低下や不登校、ニートの問題など教育現場は問題が山積している。「こんな時代だから、現行教育基本法は必要です。ここに書かれている理念を生かさないと子供たちは不幸になる」。Mさんは10条の「教育は、不当な支配に服することなく・・・・」の部分を繰り返し読み、「絶対に手をつけるべきではない」と結んだ。(東京社会部、小野博宣氏の署名記事)
何と感動的な名文であろうや!と拍手喝采を求めたいのであろうが、なんとも女々しい文章であることか。誠に情けなく不甲斐なきことこの上なしである。
体制を批判するMさんは自己の直接体験に基づいた感情で物を言っているのではない。当時の先輩だった校長の演技にかこつけて自己逃避しているに過ぎない。この当時、強制されて戦場に赴いたふとどき者は一人もいない。戦争に行って死にたくないなどと思っていたのはMさんなどの一部の非愛国の士だけである。当時、若者に檄を飛ばしたという校長は、日露、支那事変などを身をもって体験したに違いない。しかし、このMさんは同年輩のものが必至で国を守ろうとしていたときにベロでも出していたかもしれない。戦争は国家、国民を揚げての国家事業である。時の卑怯者が国益に準じた同胞に対し、『犬死などと罵倒する』こと断じて許さぬ。
現業の基本法をそれ程こよなく愛するなら、何故教育の現場で破綻させたのか?甲斐性もなく破綻させた挙げ句に10条の「教育は、不当な支配に服することなく・・・・」の項を読んで感涙するのだと。もはや呆れて物が言えない。
日本政府が言う教育に対する不当な支配とは、無国籍の立場に立ち、国家、国旗国歌を蔑ろにするアホ集団が癌細胞が如くに増殖したことをいうのである。この事態を憂慮した政府は、そういう「不順分子=癌細胞」を一刻も早く北朝鮮や中国に追い払おうとするスキームを立ち上げたのであって、それが今回の教育基本法改正法案の提起なのである。
このM氏などは、素性は、カクマルの人士か?