これは本名であって、通称名は『日教組』というそうである。本来の意味は日本を狂わす元凶ということらしい。
せっかく『WILL1月号』を買い込んできたのであるから、よく読んでさまざまな知識を獲得しないといけない。今日は198ページの長尾誠夫氏の記事を話題としたい。
高校未履修問題の元凶は日教組だ!
高校の単位未履修問題は全国に拡大して、11月8日段階で未履修のあった学校は全体の約一割580校該当生徒は8万人を超える。今回は世界史の未履修が大きく取り上げられたが、受験の対象とならない教科(家庭科、情報、総合学習)等を厳密に調べれば、更に膨れ上がっていくであろう。・・・・この事象について、一義的に学校と教師が非難を浴びるのは当然であるが、社会問題となるほどのもんだいであるから、共通の要因を探すと、「受験偏重教育」がこうじて受験者数の少ない世界史を履修させなかったというのであるが、この認識は誤っているという。なぜなら、以前に増して受験が厳しくなっているという事実はなく、受験競争が激しかった昭和40年代以前には、このような問題は起きなかった。
この元凶というのは、2002年の学習指導要領俗に言う『ゆとり教育』が実施されてからである。この改定の目玉は、週5日制の完全実施と学習内容の三割減だった。・・・・『これは労働基準法の週40時間労働の強制に呼応したものであったかもしれないが』
新学習指導要領の謳い文句は「個性重視」と「ゆとりの中で生きる力を育む」であったが、常識的に考えて納得できるものではなかった。「個性重視」といっても、生徒の個性を尊重して(あるがままに認めて)教育が成り立つはずはなく、「ゆとりを与える(のんびりさせる)ことで生きる力が身につく」はずはいということで、当時、ゆとり教育に賛成していた現場の教師はほとんどいなかったと思われる。・・・・『これが、教師側からの正直な叫びであるとすれば、真犯人は誰かという話になる・・・そこで、文科省のホームページに目をやると』
週5日制については、HPにこう説明されている。「学校週5日制は、学校、家庭、地域社会の役割を明確にし、それぞれが協力して豊かな社会体験や自然体験などのさまざまな活動の機会を子供たちに提供し、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性などの生きる力を育むことを狙いとしています」・・・・『巷の競輪や競馬の予想屋でさえこれほど的外れなことは言わない。こんなアホな予想屋がいようものなら、場外へ放り出されると同時に予想を買ったファンに袋叩きにされるのが落ちである。・・・・ところで、こんなアホなアドバルーンを高らかに掲げて、日本国と日本国民を愚弄した文部官僚はそそくさと高額な退職金をせしめて失踪してしまっているのだろうが、とっ捕まえて晒し首にでもするのが相応であろう』
やっぱり出てきた日教組
今回の責任はまず学校、教師にあり、続いて学校を追い込んだ「ゆとり教育にある」とすれば、この「ゆとり教育」を生み出したものこそ真の元凶であろう。
1992年9月6日の朝日新聞社説によると子供たちにゆとりを、自主性をが5日制の合言葉である。言葉だけでなく実際にそうする必要がある。大分県竹田市で開かれていた日教組の定期大会の教育論議の中心も、この5日制だった。5日制を機に大胆な教育改革をというのが日教組の考えだ。日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所から具体的な提案、例えば分数の指導を三学年から五学年へ、掛け算を二学年から三学年へ繰り下げるなどの提案もあった。この問題では、日教組の言うように、文部省は早急に完全5日制への道筋を明らかにすべきだろう。・・・・『もうこれは、教育以前の問題で、人をコケにしたような美辞麗句を並べ立て、自分たちが何とかしてオサボリしたいと文部省をたらし込んでいる様が朝日新聞たる機関紙を使ってあからさまに伝わってくる。彼らは、出来る限り国民を教育したくないのである。・・・・どうこじつけてサボタージュするか考えることの他には存在理由もなかろう』。
『日教組の本質』が理解できるとても良い記事だと思う。(WILLを読むべし)
せっかく『WILL1月号』を買い込んできたのであるから、よく読んでさまざまな知識を獲得しないといけない。今日は198ページの長尾誠夫氏の記事を話題としたい。
高校未履修問題の元凶は日教組だ!
高校の単位未履修問題は全国に拡大して、11月8日段階で未履修のあった学校は全体の約一割580校該当生徒は8万人を超える。今回は世界史の未履修が大きく取り上げられたが、受験の対象とならない教科(家庭科、情報、総合学習)等を厳密に調べれば、更に膨れ上がっていくであろう。・・・・この事象について、一義的に学校と教師が非難を浴びるのは当然であるが、社会問題となるほどのもんだいであるから、共通の要因を探すと、「受験偏重教育」がこうじて受験者数の少ない世界史を履修させなかったというのであるが、この認識は誤っているという。なぜなら、以前に増して受験が厳しくなっているという事実はなく、受験競争が激しかった昭和40年代以前には、このような問題は起きなかった。
この元凶というのは、2002年の学習指導要領俗に言う『ゆとり教育』が実施されてからである。この改定の目玉は、週5日制の完全実施と学習内容の三割減だった。・・・・『これは労働基準法の週40時間労働の強制に呼応したものであったかもしれないが』
新学習指導要領の謳い文句は「個性重視」と「ゆとりの中で生きる力を育む」であったが、常識的に考えて納得できるものではなかった。「個性重視」といっても、生徒の個性を尊重して(あるがままに認めて)教育が成り立つはずはなく、「ゆとりを与える(のんびりさせる)ことで生きる力が身につく」はずはいということで、当時、ゆとり教育に賛成していた現場の教師はほとんどいなかったと思われる。・・・・『これが、教師側からの正直な叫びであるとすれば、真犯人は誰かという話になる・・・そこで、文科省のホームページに目をやると』
週5日制については、HPにこう説明されている。「学校週5日制は、学校、家庭、地域社会の役割を明確にし、それぞれが協力して豊かな社会体験や自然体験などのさまざまな活動の機会を子供たちに提供し、自ら学び自ら考える力や豊かな人間性などの生きる力を育むことを狙いとしています」・・・・『巷の競輪や競馬の予想屋でさえこれほど的外れなことは言わない。こんなアホな予想屋がいようものなら、場外へ放り出されると同時に予想を買ったファンに袋叩きにされるのが落ちである。・・・・ところで、こんなアホなアドバルーンを高らかに掲げて、日本国と日本国民を愚弄した文部官僚はそそくさと高額な退職金をせしめて失踪してしまっているのだろうが、とっ捕まえて晒し首にでもするのが相応であろう』
やっぱり出てきた日教組
今回の責任はまず学校、教師にあり、続いて学校を追い込んだ「ゆとり教育にある」とすれば、この「ゆとり教育」を生み出したものこそ真の元凶であろう。
1992年9月6日の朝日新聞社説によると子供たちにゆとりを、自主性をが5日制の合言葉である。言葉だけでなく実際にそうする必要がある。大分県竹田市で開かれていた日教組の定期大会の教育論議の中心も、この5日制だった。5日制を機に大胆な教育改革をというのが日教組の考えだ。日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所から具体的な提案、例えば分数の指導を三学年から五学年へ、掛け算を二学年から三学年へ繰り下げるなどの提案もあった。この問題では、日教組の言うように、文部省は早急に完全5日制への道筋を明らかにすべきだろう。・・・・『もうこれは、教育以前の問題で、人をコケにしたような美辞麗句を並べ立て、自分たちが何とかしてオサボリしたいと文部省をたらし込んでいる様が朝日新聞たる機関紙を使ってあからさまに伝わってくる。彼らは、出来る限り国民を教育したくないのである。・・・・どうこじつけてサボタージュするか考えることの他には存在理由もなかろう』。
『日教組の本質』が理解できるとても良い記事だと思う。(WILLを読むべし)