昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

呆れた国会質問

2005年10月07日 | Weblog
 先週の水曜日の事であったか、車を運転しながらラジオで参院の予算委員会の中継を聞いていたのであるが、ほとほと呆れた代表質問があった。

 社民党の福島瑞穂氏の質問である。
 憲法改正について、憲法9条を自民党の言うように改正すれば、自衛隊はイラクで爆弾を落とし人々を殺す事が可能になる。
 それに対して、小泉首相は、
 全く違う。戦争をする為に憲法改正するわけではない。非武装中立で日本の独立と安全が守れると思っていない。

 とまあ、こんな具合であったのだが「水と空気と平和はタダ」と思っている少女の如きメルヘン振りには、もはや治療薬は無いのである。「いい年をして、お嬢ちゃんいくつになるのと質問されたいのか?」

 中国や朝鮮などという国はだね、お嬢ちゃんが想像しているような「ユートピア」ではなくて、本当に恐ろしい国なんだよ。
 困ったら「白旗」とか、逃げればそれで助けてもらえるなどと信じていたら、酷い認識不足なんだよ。

 例えば、こんな残虐な辱めを受ける事を歴史を鏡として記憶しておく事が重要なんだよ。

 1937年7月29日北京の近くの通州というところで「通州事件」というのがあって、日本人223人が惨殺されたんだけどね、その惨殺され方が、ナチスどころの比ではなかったのさ。

 「中国人は、日本側の兵力の手薄なことを利用し、機関銃や小銃を乱射しながら日本人居留地に突撃し、虐殺、陵辱、略奪の限りを尽くしたのである。これにより、現地の日本人385名のうち、用事12名を含む223名が虐殺された。
 多数の女性は強姦された後、陰部を銃剣で突かれ、えぐりとられた。首に縄を掛けられ引き回しにされた上、目玉をえぐられた者もいた。牛のように鼻に針金を通したまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。これらは、全て中国伝統の虐殺の作法である」(中国、韓国反日歴史教育の暴走、黄文雄氏より)

 侵略とはこのようなものである。
 いいかげんに、フェチ平和主義も卒業しないと、世の中から見放されますよ「オバサマ!」。。。何、当の昔に忘れ去られておりますと。

 小泉首相も諭しておられたではないか。「今時、非武装中立などと(呆れた話であるが)、それをいうなら、国民一人一人に武器を持って、戦えと言っているのに等しい。しかし、国をあずかる者は、そのようなことを国民に要求はできないしすべきではない。だから、(有事の際には)専門の軍隊に任せるべきなのである」

 お説の通り、これ以上まともな道理は無いと思います。


観迎すべき朗報

2005年10月07日 | Weblog

全国ニュース(政治)


 明治維新が順調に行われた、活力の裏事情とは一体、何処にあったかということを、今一度冷静に考えてみる必要がある。
 江戸時代から日本人は、「読み書き算盤は世渡りの必須事項」であるという認識をもっていたことと、日本語の持つ事象を正確に表現し相手に伝達できるという言語的手段をもっていたことに尽きると思う。
 「素晴らしい国語」をもっていた国民であったればこそ、施政者の意志が国民の末端まで正確に伝達され、アジアで唯一独立国のあるべき姿を国民全体心にイメージする事ができたのだと思う。

 しかし、唯一度の敗戦によって、馬鹿馬鹿しいアイデアの出て来るは出て来るは、呆れるばかりであった。
 其の最たるものは、志賀直哉の「国語をフランス語」にすべしという「主張」であったろう。
 日本人を貶めたトップバッターであったろう。彼がフランス語で文学作品を書いたなどという話は聞いた事はない。まことに、軽率な御仁である。

 いまでも、呆れた主張をする「文化人」がいる。彼らは「平成のオーム貝」と揶揄されるべき誇り高き人物であるが、その中で最も取るに足らない主張とは「日本語をアルファベットで表記すべし」などと白昼夢的痴説を弄する輩である。日本語の素性すら考えた事もないのであろう。単に外国人の思考の請け売り人である。
 それと自暴自虐史観、先進的文化人の最後に位置する方で、韓国にまで出向き、日本を貶めているノーベルメダル人がおられた。かような方は、畏れ多くも天皇に奏上する前に、ご自分自らが「自ら己が首を括り賜う」べきである。この上なく不敬な人物である。

 酔っ払い親爺は、余談が長くなってしまって、本論を忘れがちになるのであるが、幸い今宵は酒の廻りが遅いらしい。
 以前、「素晴らしき国語」という日記を書いた覚えがあるのだが、日本の青少年には、日本語の本来持っている特質を生かして「論理的思考」をさせるべきだという拙なる「主張」をしたことがあったのを記憶している。
 今回、この記事を見て、非情に喜ばしい朗報であると感じ入るものである。日本語は、哲学的思考に十二分に耐える質を内在していると確信するものである。