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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

先ず中国の脅威を知らしめよ

2005年10月09日 | Weblog
対中政策 外務省挙げ総合戦略 幹部会、定期的に開催へ (産経新聞) - goo ニュース

 中国から日本に来て働いている若者達、日本の高等学校を卒業し年齢は20代から35歳くらいまでのレベルの一般的中国人が言う事は、2030年に世界第二位の経済大国となるということは、この記事の通りである。
 また、彼らの話には続きがあって、2050年には米国をぬいて、世界一の軍事、経済大国に躍進するというのである。
 そこで、「中国はアメリカと戦争する可能性はあるのか?」と質問してみると、十中八、九「今は、負けるからしない。でも、国力が対等になればアメリカと戦争により、雌雄を決し、アメリカを中国の属国にする。」このような返事が返ってくるのである。
 それでは、「日本とは戦争するつもりか?」と聞いてみると、現在日本に滞在しているという遠慮もあるのだろう。「分らない」と答えるのである。
 
 こういう国民意識を醸成させる所謂「愛国教育」が堂々と行われているのが、中国の現実の姿である。
 おそらく、本音を吐かせてみれば、「日本などという弱小国は2030年をもって殲滅」させるぐらいの鼻息であろう。
 あたかも、弱い立場の被害者の巧妙な演技をそれらしく披露し、靖国参拝が中国人の心を傷つけるだのと弄し、絶えず日本をけん制し弱体化させることに余念が無いのである。
 このような、人間としての感性も無いような国(民主主義、人権、自由禁止国)の戯言にいちいち踊らされているのであるから、日本ももはやこれまでかという気がしないでもない。

 彼らは贖罪史観に満々とした進歩的知識人をまんまと利用し、朝鮮ロビーたる日教組を動員して(当然、『売国新聞googleで検索すると意味が分る』も動員して)、腑抜け日本人育成計画を推し進めた結果、今やとうとう国家精神耗弱状態に立ち至っているのである。
 中国共産党がけたたましく宣伝する「日帝侵略」などというものは、中国の中国人による中国のための内戦にお人よしの日本軍が利用されただけのものである。この方向で歴史家は結論を出すべきである。

 この、平成維新とも言われる昨今の内外の政治環境において、平成の小村寿太郎の出現が待たれるのであるし、日本国外務省の「気骨」に期待したいものである。

歴史再認識(第九話)

2005年10月09日 | Weblog
 朝鮮を宗主国「清」から名実共に独立させたのは、日清戦争に勝利した日本であった。
 「眠れる獅子」と呼ばれて、恐れられていた清は日本との戦いに敗れる事によって、もはや、恐れるほども無い「張子の虎」の如き弱いものだという事を世界に知らしめることになってしまった。日清戦争敗北により欧米列強の侵略のターゲットとなってしまいました。

 しかし、好事魔多しという諺もあるとおり、東アジア侵略を目論むロシアは、ドイツ、フランスを誘って、日本が先に勝ち取った「遼東半島」を清に返還すべきであると日本に迫った。何故このような理不尽な要求ができたかといえば「日本を圧倒するだけの軍事力」を保有していたからである。世界情勢とは、軍事力で決まるのである。これが「三国干渉」と言われるものである。(外交とは、仲間をつくり徒党を組んで、自国の欲望をオブラートに包んで、厚かましい要求をすることである)

 この時点で、日本は、この厚かましい要求を跳ね除けるほどの国力(軍事力)は無かった。従って、忍びがたきを忍んで、一定額の還付金を受け取る事で、いたしかたなく、遼東半島を手放したのである。
 この時、日本人の脳裏には、一旦は引き下がる事やむを得ずであるが、将来一矢を報いなければならないという認識が芽生えました。
 これ以後、官民挙げて、それこそ食うものも食わずロシアに対抗する為、国力の充実に努めました。

 「三国干渉」の後、日本は単独では自国の安全は保障されないという観点から、同盟をロシアと結ぶか、イギリスと結ぶかという選択を迫られることとなった。
 ロシアは、1900年(明治33)中国でおこった義和団事件を口実に、満州に2万の兵を送り込み、そのまま居座ってしまった為、南進して朝鮮半島に進出してこないようにように、伊藤博文らは「満韓交換論」を唱えたりして、大いに議論され策が練られたのであるが、とどのつまり、外交官であった小村寿太郎の意見書により決着が計られる事になりました。
 それは、ロシアとイギリスを比べた場合、イギリスと組んで「日英同盟」の道を選択するほうが日本の国益になるだろうというものであった。
 小村寿太郎の意見書は政府の方針として採択され、それに基づいて交渉した結果、1902年(明治35)「日英同盟」が結ばれるはこびとなりました。

 日本史のこの時点における最大の功労者は「小村寿太郎」(1855~1911)であったと思います。
 彼は、明治時代に二度外交官を務めました。そして、日英同盟の締結、ポーツマス講和会議、不平等条約改正、韓国併合をなしとげました。これらは、近代日本の命運を決めた四大外交事業であったと評価されています。
 とりわけ、日英同盟を思いついたのは、彼の外交センスの真骨頂というべきものである。日本は韓国を独立国家にするために清国と戦いましたが、ロシアは執拗に韓国を征服しようと画策しました、もし韓国がロシアの植民地となれば、日本海の制海権は奪われるし、日本も植民地にされる懸念さえ出てきます。
 ロシアに妥協するか、戦争を覚悟で敵対するかの選択肢しかなかったのである。現に、元老、伊藤博文は単身ロシアに乗り込み「満韓交換論」で決着を図ろうとしました。
 しかし、小村寿太郎の構想というのは「ロシアはあくまで韓国を支配するつもりだから、利害を同じくする英国と結んで、ロシアが我国の希望を受け入れざるを得なくするのが得策である。」
 このような意見書を書き、妥協派の元老達を説得し、日英同盟の締結を決定させました。
 英国は当時、日の沈まない国といわれるほどの大国であったから、この「日英同盟」の効果は絶大なものがありました。この後、20年間日本の安全保障の根幹となりました。
 日露戦争の終戦条約である「ポーツマス条約」も、不平等条約改正も「日英同盟」の賜物であったのです。

 現在の彷徨する日本外交は「第二の小村寿太郎」の登場を待ちかねているのであるが、贖罪憲法を改正し、独立国家の自覚を持てないうちは無理なお願いか?

 当時、ロシアは日本の10倍の軍事力と経済規模を持っていたといわれる。そんなロシアが満州の兵力を増強し、北朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま放置すれば、ロシアの極東における軍事力が強大になって、太刀打ちできないようになってしまうのは明白であると判断した政府は、ロシアと開戦することを決心した。
 
 日英同盟によるイギリスの支持を背景に1904年2月仁川沖の奇襲でせんそうを開始し、日本陸軍は有利に戦闘を進め、1905年3月の奉天戦で大勝。
 ロシアは劣勢を跳ね返すため、バルト海からバルチック艦隊を派遣したがアフリカの喜望峰経由で7ヶ月もかけて日本海にやって来た。これを迎え撃った連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指揮の下、海兵員の高い士気と巧みな戦術により、バルチック艦隊を全滅させました、これは世界海戦史上においても稀に見る一方的な勝利であると讃えられています。

 この、日本海海戦に勝利した時点で、日本の戦争遂行能力は極限に達していました。ところが、幸いな事にロシア国内でも1905年1月、血の日曜日事件が起こり、ロシアはロシアで国内の危機に見舞われていたのを機に、英、米の配慮で、米国のセオドア・ルーズベルト大統領が講和を仲介しました。アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果、1905年(明治38)9月ポーツマス条約が締結されました。

 この条約で、日本は、韓国(1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改名した)の日本による支配権をロシアに認めさせ、中国の遼東半島南部の租借権を取得し、南樺太の領有を認めさせ、南満州にロシアが建設したてつどうの権益を譲り受けたのであるが、賠償金は手にする事はできなかった。これを不服とする国内の不満分子は、「日比谷焼き討ち事件」という暴動をおこした。

 いつの世も、人種差別の時代である事を認識しなければならないのである。この戦争を、歓迎したのは、当然のこととして、植民地下の征服者の圧制に喘ぐ非殖民かされた国々の人々である。この文章は扶桑社の歴史教科書を大いに参考にして書かれているのであるが、被植民地国家からのメッセージを記載しておこう。

 「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに至ったのです。(孫文)」「もし、日本が、最も強大なヨーロッパのの一刻に対してよく勝利を博したとなれば、どうしてそれをインドがなしえないといえるだろう。(ネール)」「立憲制によってこそ日本は偉大になった。その結果かくも強き敵に打ち勝つことができたのだ。(イランの詩人、シーラズィー)」「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である。(エジプト民族運動家ムスタファ・カミール)

 同時に、アジア人は侮れない人種であるという「黄禍論」が欧米白人国家の間で醸成されていくのであるから、「地球は人種を常に意識するのである」これ以後、アメリカでは将来の日本の脅威について研究されるのである。

 日清戦争から日露戦争にかけての時代は、明治維新の「精華」を世界に知らしめた時代であった。
 明治維新は、日本の下級武士が明治天皇という「良識のあるお方」を「戴いて」成し遂げたものであったが、よくも有能な政治家、外交官、思想家、科学者が排出され国家を盛り上げ、世界史上で見ても決して見劣りしない歴史を刻むことが出来たことを日本人として「誇り」にすることを躊躇する事が有ってはなりません。「皆で、我が先祖が歴史を刻んで命をつないでくれた縁に感謝しようではないか。」