カトリック教会には「教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)」という言葉があります。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 には、
教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)とは、カトリック教会において、ローマ教皇が信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえないという教義のこと。
と書かれています。
ここで語られる、「正しく決して誤りえない」とは絶対的な正しさであり、何人もその正しさを否定することはできない。と思ってしまいますが、教皇の不可謬権の成立過程等も含め、こういう見方は誤りであり、また教皇の不可謬権が行使された例は極めて稀であることからウィキペディアでもその行使はまれである旨の記述があります。
絶対者の正しさは、信仰する人々が過ち多き者であることに目覚めることで、確認されます。それが信仰の絶対的な献身性を示すもので、ニーチェの宣言は、その正しさの存在理由相対概念を追及することでなされたものに思います。
「正しさ」とは、何ぞや。「正義」とは、何ぞや。根源は全てそこにあり、哲学の道もまたそこにあると思います。
しかし、正義は、不正義をもって有り、正しさは、悪をもって有ります。仏教哲学はそこに分別智と無分別智を創造し、哲学は分節を創造します。
人がそこをどう捉えるかで、認識論が、自己であり他者でありで実体、実存・・・・限りなき知の思考世界が広がっていきます。
実際人は過ち多き者であろうか、一体全体誰がそう確定するのであろうか。自覚的人間であり続け、常に我を正すもの、この世に果しているのであろうか?
多分「存在する」と答える人がおられると思います。・・・神以外に。
それがある共同体内にある人々の声であるならば、その対内的倫理は、そばらしい愛に満ちたものだと思います。布教、勧誘とはこの愛に満ちた家族になりましょうとの誘いであり、幸福が約束されることを示されます。
イエスは山上の垂訓において「汝の敵を愛せよ」と教えました。しかし実際は今に見るように逆の現象が散見されます。対外的な愛はなかなか難しいことを示しています。
マザーテレサの言葉に「愛に相対するものは憎しみではなく、無視することだ」という言葉があると教えられました。慈悲心という言葉もあろうが、単に「無視しない」ということです。
「無視しない」ためにはどうすればよいのか、相手の尊厳を、相手の存在を無きものにしないためには、自分をどうもっていけばよいのかということでもあると思います。
不可謬性という言葉で今回のブログは始まりましたが、「可謬性」という言葉、過ちあるものである、ここにヒントがあります。
「私は、正しさも語っているが、過ちも語っている」その自己の矛盾的存在を自覚するところに、まず気づくことではないかと思います。
この「まず気づくこと」これが簡単なようで簡単ではありません。カント的な自律的な理性をものにするのは簡単ではありませんが、日々の愚直な反省に裏付けられた生活を送るしかありません。
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人間は矛盾的な存在である。当たり前のことながら、それ意識することは非常に難しいことです。
今回は、キリスト教キリスト教プロテスタント・メソジスト派の浅野順一牧師の説教集からこの「矛盾的な人間」についての説教を紹介したいと思います。
人間は矛盾的な存在である。動物には矛盾がなく、返って万物の霊長たる人間の方に矛盾がある。矛盾は人間の弱さの為でもあるが、また人間の偉大を意味するものでもある。
事実、偉大な人間ほど矛盾が多い。それ故、人間の矛盾は一概に恥ずべきこととは考えられない。人間が矛盾的な存在である所に返って深い意味を感ずる。
誰しも美しいこと、清いことを欲している。然るに反面では醜いこと、不潔なことを平気でする。人間は正しくなければならぬということをよく承知している。然るに実につまらぬことに不正を働く様なことがある。神を信じつつ疑っている。この様に我々は審美的にも道徳的にも宗教的にも矛盾だらけである。これが人間の現実の姿である。
夏目漱石の小説に『心』というのがある。或る学生が或る先生を非常に尊敬している。全く世俗の欲望から超越している様な先生から、財産を大切にせよという忠告をうけて、その学生は意外に感ずる。先生の言葉に、「人間は皆どちらかと云へば善人であり、よくよくの悪人といふものは少い。然しいざといふ場合その善人が悪人に早変りする」という所がある。
学生は先生に問うて「そのいざといふ場合はどういふ場合か」、先生答えて「金さ、金を握ると善人も悪人に早変りする。それだから君の財産を大切にし給へ」と注意するのである。
然しこれは金ばかりではあるまい。名誉欲、権勢欲、肉欲、皆然りである。殊に昨今の様に食物に乏しい時代には、他人がどんなに困っていても、自分や自分の家族の生活だけほ安全にしておきたいと思う。平素は随分、気前のよい人間でも、此の様な世知辛い時代には自ずからけちくさくなる。自分の家の米櫃(こめびつ)はひた隠しに隠しておこうとする。大きく云えば農村と都会との対立である。食生活という切実な問題に触れて、我々は毎日、自己中心的な自他の醜い姿をありありと見せられて、誠に浅ましく感ずる。
階級と階級、国家と国家の対立もこういう人間の主我的な心持の拡大せる形ではないであろうか。
他人を愛するということは気持のよいことである。他人に親切をして不愉快であると思う人間はよほどの性格異常者か、偽悪家と名乗る特殊な人間である。我々は他人に親切でなければならない。殊に苦しみ困っている人に対して温かい態度を持たなければならない。そうすれば自分も気持がよいということはよく分かっている。
然しそれをいざ実行しょうという段になると、兎角、躊躇しがちになるのが我々の持ち前である。例えば混雑した電車の中でも、元気な学生や若い勤め人が、老人や小さい子供が前に立っている様な場合でも平気で腰を掛けて、そ知らぬ顔をしている。
乗物が超満員のこの頃、不親切であるのが当然であるという様な顔つきである。此の様にいざ実行という段になると自己中心的なものが頭を持ち上げて、親切な行為を妨げてしまう。然らばその人間が根っからの悪人かというと決してそうではない。極めて善良な人間でありながら甚だ不親切なのである。まして自分の好まない人、虫の好かない相手、仇同士の間柄にある者に対して愛の心を抱くとか、親切な行為をするとかいうことは非常に難しい。
パウロが「悪をもて悪に報いず、すべての人の前に善からんことを図り」と云っているが、これがなかなか困難なことである。此の様に人間は愛他的な志と利己的な本能との間につねに往きつ戻りつしている。人間はいろいろな点で矛盾的な存在であるが、この愛他と利己との矛盾が最も切実なものである。我々は毎日この矛盾に苦しめられつつ日々を過ごしていると云っても過言ではないであろう。(『浅野順一著作集5 説教Ⅰ』創文社p48~p50から)
30年も前の説教集であり、事例に古いところがありますが、人間が矛盾的な生き物であることを分かり易く語っています。
>愛他的な志と利己的な本能との間につねに往きつ戻りつしている。<
「往きつ戻りつしている」は、私自身の消え去ることのない事実としてあり続けます。
そして・・・・、何か考えなければならないとの、心の叫びもあり続けます。
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