思考の部屋

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ハーバード白熱教室では語られなかった「緊急避難」(1)・カルネアデスの板

2010年11月01日 | 法学

ハーバード白熱教室@東京大学(前編)・ミニョネット号事件
(2010年10月04日 | ハーバード白熱教室)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c60ce989fee0a9a369e533dbf75cd777

でサンデル教授は、「彼らは必要に迫られての行為であったと主張した。君たちがこの訴訟の判事で道徳上の見地からこの事件を裁くとしよう。」と事前に注意点を示し例題を出しました。

 注意点とは「道徳上の見地」即ち「法律論を展開しないこと」という注意です。

 なぜそのように語ったのかを今朝はそのことについて語りたいと思います。

 この問題は、『これからの「正義」と話をしよう』では、第二章 最大幸福現地--功利主義で解説されています。

 白熱教室@東京大学では、

○ 功利主義の道徳的推論

○ カントの権利あるいは義務に基づく道徳的推論

が語られました。

 今朝は、まず最初に法律論を展開します。ここで例題として出されたミニョネット号事件の船長等の行為は刑法学的には「緊急避難」という行為です。が法律的にどのように評価されるか、即ち許されるのか許されないのかということになります。

 緊急避難の典型的な場合としてよく引かれる例に、「カルネアデスの板」があります。 これは、ギリシャの哲学者カルネアデスが、思索的課題として取り上げられた例であるところから付けられた名称です。

 カルネアデスは次のように問います。
 
 たとえば、船が難破して船員が海に投げ出され、漂流しているときに、二人の船員のところに一枚の板きれが流れてきたとする。その板きれは一人がすがるのなら十分であるが、二人を支えるほどの浮力はない。この場合に、一方が他方を故意に追いやり、あるいは沈ませて板きれを確保し救助されたようなとき、助かった者は果たして仲間の死について責任を負うべきかどうか、と。
 
 むろん、この問題を、道徳的な観点や宗教の面からのみ見たとすれば、とうてい許されない行為であるとの見解も当然生じてきます。いかに自分が助かるためとはいえ、他人を殺害してまでその目的を達しようとすることは、道徳的・宗教的規準からみるかぎり非難を免れないものといわなければなりません。
 
 
 しかしここからが法律論になるのですが、法律においても同じような判断がなされるかどうかは、また別論となるのです。わたしたちは同じく社会規範であっても道徳規範ないし宗教規範と、法律規範との差異に留意しなければなりません。
 
 道徳規範ないし宗教規範は、一般通常人にとってこれを遵守することが困難なより高い次元の当為をその内容として有する理想性の強い規範ですが、法律規範は、まさに一般通常人が遵守することに困難を感じない程度の当為しかその内容としていません。
 
 それは法律規範が背後に国家的強制力をもつ規範である以上、当然のことといえます。すなわち、法律のレベルでは、普通の国民が守れそうにもないような過酷な要求はしていないのです。
 
 そこで、この問題について考えてみると、神でも聖人でもない一般通常人においては、自分の生命を助けるためであっても、およそ他の生命を犠牲にしてはいけないと要求することは困難であるし、それを刑罰という国家的制裁をもって強制するとすれば、それは著しく過酷でありますし、また結果的にも不合理です。
 
 つまり、少なくともその「板」によって一人の生命が助けられた筈のところ、法律の存在によって二名ともに死亡(法律に忠実であったときは二名ともに溺死し、一名が法律のこの禁止にそむいて自分だけ助かったときは殺人者として処刑されるので、結果的には同じです)するということになるわけでして、これは法律の本来の存在意義に反する不合理な結果といわなければならないからです。
 
 したがって、法律規範に関するかぎり、このような極限的状況における仲間の殺人行為を犯罪として処罰することは許されないことになるでしょう。37条の緊急避難とは、まさにこのような特殊的状況における法の沈黙を、実定法の上で根拠づけたものに他ならなりません。
 
 ここで話を分かりやすくするために、基礎的な犯罪の処罰過程について解説します。前にもブログに書いたことがありますが、犯罪行為とは刑法各条文の犯罪類型(人を殺す。人のものを盗む等)に該当する違法性と責任性を有する行為、というように判断していき、これを構成要件理論といいます。そして違法性の段階で、違法性がないと判断する事由を違法性阻却事由といい、精神鑑定で有名な精神喪失のような状況あった場合には責任性を阻却する「事由あり」として最終的に犯罪行為ではないと判断されます。

 さて、緊急避難は、一般に違法性阻却事由とされていますが、学説の中には、責任阻却事由であるとする見解や、優越する法益保持のための緊急避難(たとえば人の生命を救うために物を破壊する場合)は違法性阻却事由であり、対等の法益保持のための緊急避難(たとえば人の生命を救うために人の生命を犠牲にする場合)は有真性阻却事由であるとする二分説があります。
 
 ただし、このように、緊急避難を責任阻却とする見解は、緊急避難行為そのものを違法であると位置づけることになり、その結果、緊急避難行為に対して正当防衛をもって対抗できる可能性を認めることになり、妥当でない。すなわち、カルネアデスの板の例でいえば、甲が乙を殺害して自分が助かろうとするとき、甲が緊急避難であれば、乙はそれに対して正当防衛が許されることになる。このような極限状況において、一方を違法、他方を合法とすることは不合理といわなければなりません。
 
 すなわち正当防衛も違法性阻却事由ですから矛盾することになる分けで、殺し合いをすることが正当で容認される行為のようになってしまいます。行なってしまった行為については甲も乙も、いずれも緊急避難があてはまるとすべきで、このような考え方は、助かった者は処罰されないという結果を容認することになりますが、これはいたし方ないことでしょう。そこで、やはり、緊急避難は違法性阻却事由と解するのが妥当とするのが今日の通説です。
 
 次に緊急避難の要件、即ちどのような場合が緊急避難にあたるかということですが、緊急避難が認められるためには、
 
 ①自己または他人の法益の保護が目的であること、
 
 ②現在の危難が存在すること、
 
 ③やむことをえざるにいでたる行為であること、
 
 ④避難によって守られる法益と危害を受ける法益との権衡が保たれていること、
 
のすべての要件がそなわっていることが必要です。(刑法37条1項本文)。

 第一に、自己または他人の法益を保護するための行為でなければならない。
 
 37条一項は、この点について、守られるべき権利を「生命、身体、自由、財産」と限定的に掲げていますが、これらに限定すべき理由はありません。たとえば、名誉や貞操を除外するべきではない。その意味では、条文は例示にすぎないと解されます。
 
 第二に、現在の危難に対するものでなければならない。現在の危難とは、現に継続中の危難ばかりでなく、目前に差し迫ったものを含むと解されます。ただし、将来予想されるにとどまる危難は、現在の危難とはいえません。
 
 危難とは、災害、事故のほか、動物による加害行為も含まれます。他人の所有する動物が襲ってきた場合、それが飼主の故意または過失にもとづくときは、飼主の故意行為または過失行為の一端としてとらえることができますから、動物の加害行為も違法な行為として正当防衛による対抗が許されると解されます。しかし、動物が飼主の故意、過失によらずに放たれ、襲ってきた場合、動物に「違法」ということはありえないので、それは危難と解するほかありません。なお、野生動物の場合は、それを殺害しても、そもそも動物傷害罪(261条)の構成要件に該当しませんから、緊急避難を論ずるまでもありません。

 危難の意義に関しては、自ら招いた危難(自招危難)に対しても、緊急避難を認めてよいかどうかについて、学説の争いがあります。たとえば、乱暴な運転をしたため人に衝突しそうになり、それを避けたところ第三者に衝突したような場合、緊急避難として許されるかという問題でです。
 
 最終の時点だけでなく、危難の惹起された状況を全体としてとらえ、自招危難については緊急避難を許すべきでないと思われます。
 
 第三に、やむことをえざるにいでたる行為であることが必要とされる。この点については、正当防衛と緊急避難とで意味あいが異なることに注意しなければなろません。というのは、正当防衛は違法な加害行為老に対する反撃ですから、厳格に、他に避けるべき方法がなかったかを追求するのは酷です。これに対し、緊急避難はなんら危害の発生に関係しない人に対する避難行為を許容することになるのですから、他に避けるべき方法がなかったことが必要とされます。これを補充の原則といいます。

 第四に、法益の権衡が要求されます。すなわち、緊急避難行為として認められるためには、保全しようとする法益が避難行為によって害される法益に優越するか同程度であることが必要とさます。
 
 現在の危難があり、それに対して避難行為がなされたとしても、それが避難行為の程度を超えた場合は過剰避難として違法性は阻却されず、任意的に刑が減軽または免除されるにすぎません(三七条一項但書)。
 
 過剰避難には、補充の原則に反する場合と、法益の権衡を失っている場合とがあります。なお、現在の危難さえなければ、過剰避難の成立する余地も存在しないことは当然です。

 現在の危難が存在しないのに、存在するものと誤信して避難行為をした場合を誤想避難といいます。

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 長々と法律論を述べました。カルネアデスの板における緊急避難は、白熱教室のミニョネット号事件の船員たちの緊急避難でもあるわけです。

 哲学の世界である「道徳責任」はどうかの議論は、一見教条的でもある論旨の推移で簡単に結論が出てしまいます。

 サンデル教授が事前に「法律論」を除外した理由はそこにあります。

 そもそも法律上の結論は、哲学的な議論の中で妥協を求めながら教条的に、また判例を根拠にした判断を基に、各事案を判断しています。

 しかし不思議に思うことがあります。なぜ「人を殺して」無罪なのか、人を殺すことがなぜ違法ではないのか、ということです。

 道徳責任を考えると当然許されるべきことではありません。構成要件とは法益、守られるべきものを規定しています。殺人罪の場合は人の命です。処罰される側からみると、自分の命を守る手段が他にない場合に人を殺しても責任はないのだということです。

 緊急避難の通説的見解では、そもそも責任性が有るのか、無いのか、の検討には至りません。法律的にも違法だと結論づけたいものです。

 そこで次に問題にしたいのは最初の方に述べてた「二分説」です。次回はこれについて述べたいと思います。

 今朝の緊急避難の解説は、私見が入らないように刑法総論の試験の模範解答例として昔参考書にしていた『設例刑法教室Ⅰ総論』(沼野輝彦著 東京法経学院出版)をほとんどそのまま書いてみました。
 
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2 コメント

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Unknown (さびねこにゃ)
2014-09-09 01:51:10
最近は動物愛護法があるので、哺乳類が害を及ぼすケースだと緊急避難の成否を考慮に入れる必要があるかと思います
返信する
コメントありがとうございます。 (管理人)
2014-09-11 07:49:23
>さびねこにゃ様
 コメントありがとうございます。
 「動物愛護法」これについては別視点で書いたことがありますが、発想が西洋的です。供養という言葉に示されるように法規制に織り込まれるようなことでもありませんでした。飼う側の問題もあり、世の中には、たいへん複雑な問題的が作られていきます。溢れに溢れるも収まらない。
 そう感じています
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