
※見出し写真:(Eテレ10minボックス・古文『おくのほそ道』から)
夏草や 兵どもが 夢の跡
Eテレ100分de名著の10月『おくのほそ道』は松尾芭蕉のこの句から始まりました。
生命の次元、命の次元などと素人が語ろうする中で、時の流れはこの番組を紹介してくれます。
時間と空間に生きる人間。3次元の空間にもう一次元を付け加えた4次元世界に生きる人間。
過去・現在・未来は正にその一次元である「時間」です。
夏草や 兵どもが 夢の跡
の芭蕉の句は、まさに過去を振り返り、現在を振り返り、未来という行く末のあり方を語っているように思います。
無の場所に、映し出され、情意が重なります。そういうことがあったことを知識としてある。「知」が「情・意」とともにこの句を立ち現わせます。
世界文学の中の俳句を語った上田真さんの『蛙とびこむ』(明治書院)があります。古い本ですが、世界的に俳句が日本を代表とする文学として拡がりつつあることを語るものですが、なぜ題名が「蛙とびこむ」なのか、17世紀後半から始まる元禄期の俳諧の世界、そこに「蕉風開眼(しょうふうかいがん)の句」として現れたのが、
古池や 蛙飛びこむ 水のおと
「蕉風開眼」
番組の解説は俳人の長谷川櫂さん、やさしい語り口でわかり易く説明されていました。テキストも素人の私にもとてもわかり易いものです。
昨夜から4回シリーズで放送されます。大変楽しみです。
さて今朝のブログは番組紹介ではなく、『おくのほそ道』の次元のことを書き綴りたいと思います。と言いながらも長谷川さんの語りのことばも加えながら進めたいと思います。
「時間は旅人である」
<『おくのほそ道』>
月日は百代(はくだい)の過客(くわかく)にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老いを迎ふる者は日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。・・・
『おくのほそ道』の冒頭部分ですが、長谷川さんはここに「時間は旅人である」「時間とともに旅をする人がいる」・・・「私もそうなりたい」という芭蕉の姿を語っていました。
空間のみならず「時間」という次元があってこそ蕉風であると私は感じました。
テキストにある話ですが紀貫之の『古今和歌集』有名な冒頭、
やまとうたは、人の心を種として、万の言と葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くもにつけて、言ひ出せるなり。
俳句は和歌の発句の五七五の部分ですが、人の心を詠みつづけてきた和歌に比べれば、言葉遊びとして低級と思われていた俳句が芭蕉の
古池や 蛙飛びこむ 水のおと
のこの一句で「人の心が詠めることを証明した。」と長谷川さんは言います。そして、
「古池」という「心に思うこと」が「蛙飛びこむ水のおと」という「聞くもの」をきっかけに(俳句の世界が)誕生し、この古池の苦によって俳句はやっと和歌と肩を並べることができた。
とのこと。
思う「こと」を見聞きした「もの」に託して言葉とする。
長谷川さんこの言葉にも、「もの的思考論」などと独りごとを言ってい私にとっては天上の声にも聞こえました。
空間に「こと」を見聞きする。それを時間という次元(過去・現在・未来)を加えながら「なにものか」を場に映す。
「知・情・意」
西田幾多郎先生の『善の研究』はこの「知・情・意」を各段階で語っています。西田哲学ワールドのはじまり。
最晩年に「作られたものから、作るものへ」なって行くのですが、私の場合はこの言葉も重ねています。
個人的な思考の中で弁証法における矛盾について時々言及しています。上記の上田真著『蛙とびこむ』にこの芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」の俳句について興味深い解説が書かれています。
<上田真著『蛙とびこむ』か明治書院から>
この句は、古くから有名だっただけに、海外でも多くの人々の注目するところとなった。おそらく、これほど何度も外国語に訳された日本の文学作品は、他にないのではなかろうか。西欧人によるこの句の評釈もまた数多いが、最も出色なのはB・K・ボウズにょる弁証法的解釈であろう。ボウズは、『ロンドン日本協会誌叢』の中で「俳句の構成」という論文を発表し、俳句のなかには弁証法的な構成をもった作品があるとして、この「古池や」の句をその代表的な例に挙げた。
彼の解釈によれば、初五の「古池や」はテーゼ、中七の「蛙飛びこむ」はアンチテーゼ、末五の「水の音」はジンテーゼである。すなわち、「古池や」は、古池という場所を設置することによって、変幻の可能性を内にたたえた命題提起になる。
春日の下、他の水は静かに動かないが、その静の中にはいつでも千変万化する可能性がかくされている。そしてその可能性のひとつは、「蛙飛びこむ」によって実現される。とび込む蛙は動そのものである。
静という定立に対する反定立である。そしてこの二者の対立は、次の「水の音」によって総合止揚される。音は両方の接点であって、古池と蛙との総合を意味する。だが次の瞬間、音は消え、波紋は静まり、動は静に帰る。
けれどもこの静は、もはや以前の静ではない。動を超えてきた静である。動の記憶をもった静である。動を弁証法的に止揚した静である。そこにはひとつの小さな、しかし宇宙の徹妙な法則を内包したドラマがある。・・・・と、こういうのがボウズの解釈である。
芭蕉の句に弁証法を適用するのは、一見いかにも突飛で理屈っぽすぎる気もするが、しかし、日本美学の体系には弁証法理論はしばしば見られるところである。世阿弥の能楽論、禅竹の能楽論、ともに弁証法にみちているし、芭蕉の俳論でも、「高悟帰俗」とか「軽み」とかのアイデアは、本質的に弁証法理論によっている。とすれば、「古池や」の句を弁証法的に解釈するのも、全くいわれのないことではない。何れにせよこれは、「古池や」の句の長い研究史にもなかった新解釈といえるのではなかろうか。
<上記書p42-p43>
弁証法は闘争の論理から和の論理と考えるものにとって、やまと言葉の動的側面である「働きのことば」のもの的思考とともに重なる。
音は消え、波紋は静まり、動は静に帰る。
西田哲学の「場所」は、矛盾が映し出されている場所でもある。
「高悟帰俗」とか「軽み」は弁証法による、というところに少々違和感があるが、長谷川さんは「かるみ」についてテキストで、
「かるみ」とはさまざまな歎きに満ちた人生を微笑みをもって乗り越えてゆくたくましい生き方です。
と解説されている。『武器としての笑い』(飯坂著・岩波新書)にも通じるところがありますが収拾がつかなくなるので止めます。しかし偶然ではあるのですが、昨日は最後に上野千里さんの詞をアップしました。
人の苦しみに泣いたおかげで
人の世の楽しみにも心から笑える
ここに芭蕉の「かるみ」をみます。
草木が微笑むとき[2011年06月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/9bfc1b9a83acb7af6d7021c39cbd0cfc
という世界も2年前に書いていました。
「場所」は何処にあるのか。それぞれにあって、それぞれが映し出している「場所」
「知・情・意」
簡潔明瞭にして単純な三語ではありますが、芭蕉の俳句の世界とともにありがたく思います。