思考の部屋

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直感の人 マイスター・エックハルト

2006年03月19日 | 宗教

 西田幾多郎全集第六巻「無の自覚的限定」の永遠の今の自己限定で、西田幾多郎先生は、
その冒頭、次のように書かれている。

 聖パウロスの「時が完了せられた時、神が彼の息子を送った」という語に対し、アウグスチアヌスが時の完了とは何を意味するのか問われた時、時が無くなることであると説明した。かかる誕生には時という如きものはなくならなくてはならないのである。しかしマイステル・エックハルト(一般的には、マイスター・エックハルト)のいうには、時の完了というのはなお一つの意味がある。時及び幾千年かの間、時において起こった又起こるであろうものを、現在の瞬間に引寄せることができれば、それが時の完了というものである。それが永遠の今というものであって、そこにおいて私が今物を見、音を聞く如く、新たに鮮やかに万物のを神において知るということができるのである。

と、エックハルトに言及している。

 ガラテヤ人への手紙第四章4「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。」

 時の完了とは時の満ちるに及ぶ時である。エックハルトは13世紀の聖職者であるが、その言動から神秘主義者として迫害の目にあった人物である。
 13世紀といえば、日本においては親鸞、道元、日蓮の名が出てくる。それぞれに、迫害、批判等を受けたが、焚書坑儒的な迫害は無かった。しかし、エックハルトはそれに類似するような迫害を受けた人物であった。
 今はその奥深い教学の中に、仏教的な思想、哲学が読み取れるとされている。

 エックハルトには「離脱について」という論述がある。手持ちの著書をみると「エックハルト説話集 田島照久編訳 岩波文庫」や「離脱について 橋本裕明訳 宗教改革著作集13カトリック改革 教文館」では「離脱」と訳されているが「離在について 相原信作訳 神の慰めの書 講談社学術文庫」では「離在」と訳されているが、「離脱」とした方が、理解しやすいような気がする。

 エックハルトは、
  「つまり神は、御自身が見出す限りの(人間側の)準備と受容性に従って働かれるのである。もしある人間の心の中にまだあれやこれやという区別があれば、そこには神が最高の場で働かれることを妨げるものが入っている可能性がある。それゆえその心が最高の場に向けて準備するならば、その心は純粋な無を拠り所とせねばならない。そして純粋な無の中には、ありうる限りの最大の可能性がある。<離脱>を持つ心が最高の場に達した場合、その場は無に基づかねばならない。なぜなら、無の内にこそ最大の受容性が存在するからである。」「神が私の心の中の最大の場へ向けて何かを書こうとされる場合には、あれとかこれとか言われるものは私の心から取り除かれねばならない。そうすれば私の心は<離脱>をかちとることになる。このようにして神はそのような心の中で最高の場に向けて、御自身の最高意志に従って働かれうるのである。こいうわけで<離脱>に達した心の対象は、あれでもこれでもないのである。」
と述べている(離脱について 橋本裕明訳 宗教改革著作集13カトリック改革 教文館P42)(エックハルト説話集 田島照久編訳 岩波文庫P250)(離在について 相原信作訳 神の慰めの書 講談社学術文庫P201)。
 
 「離脱」はいつあるのか、「神は永遠の内の一(いつ)なる今においていつも働く。」(上記エックハルト説話集P150)とエックハルトは述べる。これは西田先生のいう「自愛的限定」に基づく過現未を包む現在の自己限定と場においてと思う(上記全集P195)。
 
 さらに西田先生は、  
  「周辺なき円の自己限定として到る所に自己自身を限定する無の場所すなわち自己自身を限定する現在というものが成り立つ。それは無の自覚において限定せられたものとして弁証法的にすなわち歴史的に自己自身を行くと考えられなければならぬと共に、場所自身の自己限定として超越的に自己自身を限定すると考えることができる、弁証法的運動を内に包み之を超越すると考えられねばならぬ。(上記全集P196)」
と述べている。

 マイスター・エックハルトの一なる(時)も、西田先生の現在も、正受禅師の「一大事とは今日只今のことなり」なのである。
 一夜賢者の偈も吉祥なる一夜も、そしてスペンサー・ジョンソンの「人生の贈り物」エックハルト・トールの「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」も同一線上にある。が、無所有処、非想非非想処の段階、「大いなる存在が、自分とともにあるという感覚を保ちつづける。」段階が仏教的な正覚かというとそうではないような気がする。

 西洋、東洋の思想的、哲学的、心理学的には共通基盤はあるが、どうしても

 キリスト教的な思想を暗黙の大前提として書かれており、キリスト教でいう「唯一絶対で全能の神創造主」に匹敵する「大いなる存在」を全面的に信頼していることが、著者の主張を実践するための必要条件だということです。この点で、「万物神」という曖昧な観念や「無神論」「唯物主義」で生きている多くの日本人にとっては、この本(エックハルト・トールの「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」)を理解することは難しいかもしれません。

コメントする方がいるがこのような形而上学的なもの、外側に「神」を求める考えに固執と大いなる過ちを与えることになり、そのような主張をする人が多く見られる。

 マイスター・エックハルトは、「心の正常な人とは神を本当に己れ自身に所有している人であり(神の慰めの書 講談社学術文庫P26)」と述べる。
 この「神」の取得は、エックハルトが云うように「あれでもこれでもない」という分別ではなく無分別智によってもたらされるのである。

 「万物神という曖昧な観念が日本人にある。」という主張は、大いなる誤りである。
 直観で万物神を把握できることは、これほど貴重なことは無い。曖昧な観念ではなく明らかなる直観なのである。
 
 マイスター・エックハルトは、直観の人である。 「大いなる存在が、自分とともにある」を更に越える「直感の人」であると思う。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
エックハルト研究してます (ヨセフ)
2009-11-18 20:01:22
「直観の人」という形容は、面白いと思いました。でも、私は少し違う感触を持っています。
私もエックハルトを個人的に研究しています。よろしかったら、私のブログを訪れていただければ幸いです。
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ブックマークしました。 (管理人)
2009-11-18 20:44:55
コメントありがとうございます。
ブックマークしました。神学も勉強していますので立ち寄り勉強をさせていただきます。
返信する
なぜ? (ヨハン)
2018-04-13 03:28:32
初めまして。
マイスター・エックハルト、素晴らしくも難しい人物ですが、
なぜ、エックハルト・トールさんが引き合いに出されているのでしょうか?
離脱に至っていないトールさんと共通点は少ないと思います。
名前で選びました?
どうも失礼いたしました。
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