心理学の分野には「トランスパーソナル心理学」というものがあります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
【概要】トランスパーソナル心理学とは、1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学。人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたとされる。人間の究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されると考え、そのための精神統合の手法を開発した。
【トランスパーソナル心理学の定義】Lajoie and Shapiro (1992) は、40の1969年から1991年までの記事になったトランスパーソナル心理学の定義をレビューし、各定義に共通の5つの特徴を抽出した。それは(1)意識的な状態、(2)至高または究極の潜在性、(3)自我または個人的な自己を超える点、(4)超越性(トランセンダント)、(5)スピリチュアルであること、だとした。
Walsh and Vaughan (1993)は、存在論的または方法論的に、暗黙的合意を前提としてしまっている点について、多くのトランスパーソナル心理学の定義を批判した。 また、彼らはトランスパーソナル心理学を、意識の健康な状態や、永遠の哲学にだけ結びつけようとする定義の問題点を指摘した。これらの研究者はトランスパーソナルな体験や現象に気を配るだけでなく、「これらの現象は、トランスパーソナルな経験の原因、効果や相関物、修行やそれらの影響で創り出されたものも含む。」と記している。(Walsh & Vaughan, 1993, p203).
【代表的な心理学者】
代表的な心理学者としては、イタリア人でフロイトの弟子の一人サイコシンセシス(精神統合)のロベルト・アサジオリ、人間性心理学でも知られ、至高体験にも焦点をあてたアブラハム・マズロー、ホロトロピック・ブレスワークを開発した精神科医のスタニスラフ・グロフなどが上げられる。
なお、現在、インテグラル思想の提唱者として活躍するアメリカの思想家・ケン・ウィルバー(KW)のトランスパーソナル運動との関りについては、注意が必要となるだろう。ウィルバーは、執筆活動の初期より、トランスパーソナル運動が内包していた諸々の構造的な問題を認識しており、数々の著作をとおして、その克服のための提言をくりかえして行ってきている。しかし、そうしたこころみにもかかわらず、トランスパーソナル運動は、Spiral Dynamics理論において"Green vMeme"と形容される価値観の構造的な限界を克服することができないままに、確実に調査・研究・実践の領域において劣化をつづけている(Wilber, 2000)。こうした状況のもと、1990年代の後半、ウィルバーは、当時Association for Transpersonal Psychology(ATP)の総監督(Executive Director)を務めていたMiles Vichの辞任を契機として、自らもATPの運営を離れて、また、トランスパーソナル運動そのものとも訣別を表明している。その意味では、ウィルバーをトランスパーソナル運動の一員としてみなすことは、もはや無理があるといえるだろう。
【トランスパーソナル心理学への批判】
新しい学問領域であるため、プロトサイエンスのレベルに達しているかどうかという疑問がもたれる場合もあるが、臨床では一定の効果が認められる。その点に関して、思い込めば効果はある(プラセボ)という見方もあり、それが科学かどうかとは別の論点であるという指摘がある。もともとニューエイジ思想の影響が色濃く、「自己を超えたなにものか」という領域は、再現性に乏しい上にスピリチュアリティーも扱うため宗教に近い部分もあり、そのため宗教やオカルトそのものであるとの批判がある。ユング心理学のようにオカルトあるいは疑似科学であるとの批判に対し、十分な説明がなされていないという意見が批判者の間では大勢である。
再現可能性、実験再現性、再観測可能性や、臨床試験を中心に据えた研究発表が現時点では非常に少なく、反駁不可能な領域に関しても言及しようとする傾向が強いことが、批判される一因である。
以上の説明等がなされています。
代表する心理学者に精神科医のスタニスラフ・グロフという人の名が出ていました。この人の著書に『脳を越えて』(春秋社)があり、訳者は吉福伸逸・星川淳・菅靖彦という方々です。
このスタニスラフ・グロフがフランクルの実存的精神療法の「意味への意志」について次のように書いています。
<『脳を越えて』(春秋社)から>
ヴィクトール・フランクルの実存分析ないしロゴセラピーは、人生の意味感覚を重視するアプローチである。フランクルはとりたてて分娩前後の力学やそれにともなう誕生と死という一対の問題を認識していないが、彼のセラピー体系の発達が強制収容所での劇的な体験に深く影響をこうむっていることは重要である。
強制収容所の収容者の極端な苦悩は分娩前後のテーマに特有なもので、意味の探求につながっている。しかし、死・再生プロセスの文脈で起こるこうした探求の解決は、フランクルによって提示されているものとはかなり異なっている。それは人生の意味ある目標を知的に構成するのではなく、人生のプロセスそのものを評価する、哲学的・霊的な世界内存在のあり方を体験的に把握することにかかっている。
結局、知的分析や論理の使用によっては、人生を正当化したり、人生に意味を見いだすことはできない。生きることに価値があることを情緒的・生物学的に体験し、存在という事実に積極的な興奮を感じる状態に到達しなければならない。
理にかなった哲学的問題としてではなく、人生の意味の問題に哲学的に固執、苦悩するのは、生のプロセスのダイナミックな流れが妨害され、阻止されていることを指し示す徴候とみなすべきであろう。
この問題の唯一の解決法は人生の目標の考案ではなく、生のエネルギーの流れを回復する、意識の深い内的変容と転換のうちにこそ見いだされる。人生のプロセスに積極的に関わり、情熱や喜びを感じる人間は、人生が意味をもっているかどうかなどということには疑問を抱かない。こうした状態にあっては、存在は貴重で奇跡的なものに思われ、その価値は自明である。
<以上同書p241~p242>
このように裸の実存としてある人間の「意味への意志」については、「生のプロセスのダイナミックな流れが妨害され、阻止されていることを指し示す」ものであると述べています。さらにの最後の部分に、
「唯一の解決法は人生の目標の考案ではなく、生のエネルギーの流れを回復する、意識の深い内的変容と転換のうちにこそ見いだされる。人生のプロセスに積極的に関わり、情熱や喜びを感じる人間は、人生が意味をもっているかどうかなどということには疑問を抱かない。こうした状態にあっては、存在は貴重で奇跡的なものに思われ、その価値は自明である。」
とあります。「存在は貴重で奇跡的なもの」という言葉は理解できない話ではないのですが、この精神性の問題が一歩肉体を離れた存在の話しになると上記の【トランスパーソナル心理学への批判】になってきます。
「元信者高橋容疑者を再逮捕 逮捕監禁致死の疑い」という見出しのニュースがありました。オウム真理教の元信者の高橋容疑者(被疑者)の再逮捕の記事がありました。
産経新聞9月2日(日)18時17分では、
オウム真理教による平成7年の東京・目黒公証役場事務長監禁致死事件をめぐり、警視庁は2日、逮捕監禁致死容疑で、教団元信者、高橋克也被告(54)=殺人などの罪で起訴=を再逮捕した。高橋容疑者の逮捕は4回目。「逮捕事実については黙秘します」と供述している。
ということです。高橋被疑者の内心は分かりませんが、元が付いているのでもう信者ではないのか、と思ってしまいますが素人目には今も麻原教の信者のように思えてなりません。マインドコントロール、そんな言葉を思い出します。
「トランスパーソナル心理学」の解説の中に「スピリチュアリティー」という言葉が書かれています。スピリチュアリティ(英: spirituality、霊性)という言葉ですが、
このスピリチュアリティに関しては、その筋の人がよくテレビに出ていました。もうこの日本にはカルト的な集団や宗教法人はないのかというと、そうではないということは誰でも知っていることです。
書店に行けばおびただしい関係書籍が鎮座しています。中には教祖様自身にキリストやお釈迦様の霊体が降りてきて現生の我々に導きの言葉を述べているものさえあるのですからすごい話です。
「実存」とは自分を離れてはない、ということでもあります。その精神性は自分を離れてはないということで、意識も無意識も私の真っ只中にあるということです。
冷静に見つめる目、その境界線はそこにあるように思います。