思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

詠歎の美学とクオリア

2009年05月21日 | 仏教

 バーナード・ルールドによれば日本やアジアの世界観は、「物質と心が一つにおいて一元的であり、またその一なるものが多様なもろもろの形態に反映されているがゆえに多元的である。」ここで西欧の考え方がユダヤ・キリスト教によるものだとすると、日本やアジアの考え方は仏教の考え方だということになるだろう。「色(物質)即是空、空即是色」といった言葉に示されるのが、そのありようにおいて多元的である一元論的宇宙観のあり方である。いま一つ、ルールドは、このことと関連して「全体は部分の和より大きいとする全体論こそ東洋の宇宙観である」ともしている。ことやものを要素にわけ、その総和が全体であるとする西洋型の思考と異なって、全体論にたつ東洋では、全体は部分より大きいとかんがえるとするのである。 (物語にみる英米人のメンタリティ 谷本誠剛著大修館書店P48)

 日本の重要な神に大物主神、事代主神がおわします。世の物事の序列で考えると「もの・こと」と常に「もの」が先にきます。ゆるやかな限定と、それよりも強めの限定。和御魂と荒御魂の神の総和の御魂の性質が見られます。正と不の二元的な思考ではなく性質の穏やかさのレベルで見ているようです。

 事物(じぶつ)という言葉は、事物の現象の特定の強度を示しています。漢字文化のもつ唐意(からごころ)の要素をしめすもので日本的「無」と中国的「無(老荘)」との相異に出てきます。中国の隠遁が隔絶的隠遁の傾向が強いが日本の場合は、流離とかさすらいという形が多い。それは世俗との緩やかな離れであり「さすらう」は如実にそれを示していると思います。

 「もの」という言葉を、中西進先生は明治時代まで現在使われている「自然(しぜん)」に当る言葉がなかったことから「もの」がそれであろうといわれていて、私もそのように考えていました。

 しかし、やまと言葉が、主体(自己)が意識をある方向に向け他者を認識し、認容する作用として志向性という言葉を使うならば、「もの」という言葉の使用は動詞的に名詞のような限定的なものではなく、視野の広い、認識の広さ、志向性の広がりによる認識し、認容した結果の表現のように今は思っています。

 これは昨日の「詠歎」にもあらわれれ、言い放ちの表現でありながらまとまりがあり、不完全という二元論的事物判断は的を得ていません。

 美学という言い方は好きではありませんが、「詠歎の美学」ということを句の世界では言いますがそれがこれにあたります。 

 私はこのような、志向性の広がりのある認識感覚をもった思考法を「もの的思考」という言葉で表現したいのです。クオリアという言葉の意もそれに包まれると思うのですが、クオリアが味覚の世界の味の素的発見のようで、思考という人間の脳科学の世界には更にクオリアにプラスまたは超えるものがあるような気がします。


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