「日本仏教に欠けていたは愛」という記事にコメントをいただきました。
「『空と因縁』の教えの仏教においては、『愛』はその一部の行為ではないでしょうか」旨のコメントかと思います。今朝は「仏教における愛」について書きたいと思います。
大正・昭和にわたって、わが国の印度学仏教学会に新研究の分野を拓き、大乗仏教を大衆にひろめた碩学・木村泰賢博士という文学博士がおられました。木村博士の書かれた「原始仏教思想論」という本があります。博士は、この第二編事実的世界観P116・7に、
「この世界は時間的に見た無数の異時的因果関係と空間的に眺めた無数の依存関係とから織りなされたもので、すべては無限の網を引いて相互に依存しあっているというのが即ち諸法因縁観の精神であらねばならぬ。仏教でいう有為法というのは実にこの因縁生の世界を指すもので世界は無常変遷して止まざる理由もその関係の上に成立して、その間に常恒の存在がないからである。」
と、述べています。
仏教の「愛憎」も織りなされるものの中のある現象を捉えたものということができるかもしれません。しかし「愛」という言葉を特定した時「それはどういうものか」という疑問が出てきます。「憎しみ」の反対概念とそれは漠然とした心情を思うだけです。
しからばお釈迦様はどのように言われておられるのかということになります。そこでスッタニパータを紐解くと次のことが分かります(ブッダのことば 中村元訳 岩波文庫P37)。
八 慈しみ
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達すべきことは、次のとおりである。能力もあり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食料で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとして生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、・・・省略
147 目に見えるものでも、見えないものでも、・・・省略
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの思いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
152 諸々の邪な見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
と、スッタニパータには書かれています。
宗教学者増谷文雄先生は、「仏教とキリスト教の比較研究 筑摩叢書 P256」で
キリスト教が「愛の宗教」であるのにたいして、仏教は「慈悲の宗教」であると称せられる。
と述べているように、仏教は「愛」よりも「慈悲」を重んじる。重んじるというよりも否定している。
このことについて解りやすく説明しているのが「ひろさちあ」さんです。その著(釈迦とイエス ノン・ブック祥伝社 P192・3)で次のように解説しています。
キリスト教では、「愛」は肯定される。汝の隣人を愛せ・・と、イエスは教えた。しかし、仏教では「愛」を否定する。愛してはならぬ・・と、釈迦は教える。
仏教でいう「愛」は、基本的には「欲愛」であり「愛執」である。われわれは対象を愛しているかのように思っているが、そのじつ本当は愛しているのは自分であって、自分に都合のいいように相手を従属させようとするのが愛である。それゆえ、愛する者が自分の願望とは違った働きをすれば、すぐさまその相手を憎みはじめる。・・・・
と「愛」「憎」の異時的依存を説明し、具体的な否定の説明はしていませんが、上記の「慈しみ」をもつことが「恨みの念」の増殖なき常態を保ち、それを「愛」の否定の表現となっています。
ここで原始仏教に忠実だとするA・スマナサーラ氏の教えを見ますと実によく解ります。
聖心会シスター鈴木秀子さんとの対談集(いまここに生きる智慧 サンガ)を見ると目次に「愛」の字がある箇所は2箇所で、「相手の権利を守る愛と慈しみ」「愛情は努力して得るもの」という文章中にあります。
「愛」の言葉を使用し語り始めるのは鈴木さんで、A・スマナサーラ氏はやんわりと否定していきます。例えば「執着的な愛情ではなくて、慈しみです。相手の権利を守った愛情ですね。」という表現をしています。
次に「愛情は努力して得るもの」においてですが、この題の前が「親は子どもの奴隷ではない」ということについての内容でそこでも鈴木さんが最初に「人は得られないような大きな愛情を求めてしまう」という問題提起しています。これに対してA・スマナサーラ氏は、親子関係の愛情問題に「(子が)親からもらう愛情」という本人(子)の努力という子の視点から考える思考に変えて説明しています。これだけでは意味が不明かもしれません。
キリスト教の「愛」と仏教(原始仏教)の「慈しみ」の関係がよく解りますので一読をお薦めします。なおスマナサーラ氏の著書には「慈しみの瞑想法」を書いた「自分を変える気づきの瞑想法 サンガ」や「慈経 日本テーラサーラ仏教教会」という本もあります。
ここで論題を仏教の「愛」に戻しますが、このように仏教においては初期の段階から「愛」については語られません。
仏教の世界では、煩悩の説明で、縁起における依存・相依関係で「愛」という言葉が出てきます。縁起の法における依存の説明の際の一つの使用概念ということだと思います。
現代の世の中「愛」という言葉がいろいろに事態に使用されると「自分にとって都合の良い愛」「独りよがりの愛」が前面に出てきます。したがって「ひろさちあ」さんがいうように「相手の心変わり」「対するものの態度」で「憎しみ」が生成しやすくなります。
そこで重要になってくるのは「慈しみ」「慈悲」という自己形成の論理を持って対処するということです。そこに仏教の教えがあると思います。コメントに対する答えではありませんが「仏教における愛」を書いてみました。
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「一切の現実の法相は真如の理である。
その注釈
穢れを入れることを許しながら、しかも、
その本性は浄である。
無数量の微妙な功徳がある。
無生無滅で淡として虚空のようである。
一切の衆生は平等である。
一切の法は不一不異である。
一切の相は、一切の分別を離れ、
尋思の路絶え、
名言、道を断じている。
その本性本質はまさに寂である。
故に涅槃という」
この言葉は、当に私たちの頭脳の中味を示しているように思うのです。
本来、私たちの頭脳の中は「空の世界」であり、因縁があって初めて物事が対象として働き出てくるのであると、思うのです。
ですから私たちは常に八正道を心がけねばならないし、その中に「愛」も含まれていると思うのです。
私の思いとは、このように極く概念的なものであり、具体的に詳しく説明できません。
勝手なコメントでありますが、お許しください。
縁起の網の中で生活し、沸々と湧き出す煩悩滅却するには、大乗の場合専修念仏、専唱題目、只管只坐などに専心すれば戒は守られると重点を信においています。それに対し瞑想法は、その点信があまくなり「愛」という概念の形を別な視点で捉え対処しなければならないしたがって仏教では初期段階からそういう意味で「愛が欠けている」ことに言及していました。
戒という守りの中でみる(視点をおく)と、心がけの中に「愛」の姿もあると思います。
説明が難しいのですが、
<私たちの頭脳の中は「空の世界」であり、因縁があって初めて物事が対象として働き出てくるのであると、思うのです。
ですから私たちは常に八正道を心がけねばならないし、その中に「愛」も含まれていると思うのです。>
というお話は、わたしもそのように思っています。
原始仏教のことは知りませんが、少なくともウチの宗派では「愛」は非常に重要なタームですね。道元禅師の「愛語」もそうですが、太祖・瑩山紹瑾禅師は『伝光録』第41章にて、世俗の愛と、出家者の愛との違いを提唱しておられます。無論、キリスト教のような愛ではないですが、我々自身、対象と関わるという心的機能に「愛」を用います。対象と関わらなければ、菩薩の本懐は実現できませんから、原始仏教では執着の原因としてのみ解される愛が、大乗仏教では、菩薩の実践の要因となったのです。
勝手気ままに掲出しています。モンゴルのお話を聞き自分が騎馬民族に興味があり、またちょうど司馬遼太郎先生のことを書いたりしていて不思議な気がしました。
服装に現代風ならば「バンド」があるのですが騎馬民族の「バックル」が古墳中からは出てくるのですが日本の伝統の中に残らなかった。これが不思議で不思議で現在考察中の一つです。さて「愛語」この言葉ではたと自分の娘の名前を思い出しました。心やさしい娘になるようにとつけたことを思い出しました。
仏教なおける愛(3)でコメントを使用しました。曹洞宗であることに感謝しています。
今後もよろしくお願いします。