思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(2)・孟子・古事記伝

2010年10月23日 | ことば

 ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(2)で、

ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(1)・一元論二元論の世界
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c189471da3c0000fec0db24775ec114c

の続編になります。

 「良心」という言葉が、明治維新後の西洋の文化・学問輸入の際、「conscience」という言葉に「良心」という漢字をあてたということを前回述べましたが、そもそも日本語に訳者が似たような言葉があると思い、その言葉を該当する外国語に使用することにしたわけです、従って辞書作りにどのような人が加わっていたかで大きく辞書の無いの言葉の正確さが出てきます。当然訳者の言葉の知識量ということになります。

 このような言葉事情は、岩波新書の『翻訳語成立事情』(柳父 章著)が詳しいが残念なことに「良心」の言及はない。近い言葉には「権利・自由」の成立事情があり、「自然」という言葉に興味のある方は、この言葉についての言及があるので参考になります。

無為自然
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c58fe058637a604796eb8f34bad1d48a


自然そのものにひそむ聖性
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/f0c6e5cab54ed5b455327ad2616293eb


原始仏教聖典・自然認識
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a0008b329e4bf0089ce71ee1c615a9f9


”正義 ”の主張・妥協・お互い様
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8c5e4ce45ba13f9cab3b5b94ecd447fd


春と修羅と刹那生滅
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0653913ebe5c1e613a556a4f48526b54

以上が「自然」に関するブログです。

さて論点が「良心」から離れてしまいましたが、「良心」の原点に戻りたいと思います。「良心」という言葉を一般的な辞書でまず引いてみます。角川の新字源では、

 良心【りょうしん】人間固有のよい心。ありのままで汚れのない心。
 出典:孟・告子上

と説明されています。孟・告子上とは、「孟子巻第11 告子章句上 牛山之木」のことです。

 全体の漢文は、岩波文庫では、

                              


となっています。たまたま学生時代に使った三省堂 明解古典学習シリーズ論語・孟子訳を見たところ、この箇所が使われていましたので、以下の通り写真掲出します。

               


読み方は、

 人(ひと)に存(そん)する者(もの)と雖(いえ)ども、豈(あ)に仁義(じんぎ)の心無(こころな)からん哉(や)。
 
 其(そ)れ其(そ)の良心(りょうしん)を放(はな)つ所以(ゆえん)の者(もの)も、亦(ま)た猶()なほ斧斤(ふきん)の木に於(お)けるがごとき也(なり)。
 
 旦旦(たんたん)にして之(これ)を伐(き)らば、以て美と為すべけん乎(や)。其(そ)日夜(にちや)の息(そく)する所(ところ)、平旦(へいたん)の気(き)あるも、其(そ)の好悪(こうお)の人(ひと)と相(あい)ひ近(ちか)き者幾(ものほとん)ど希(まれ)なるは、則(すなわ)ち其(そ)の旦昼(たんちゅう)の為(な)す所(ところ)、有(ま)た之(これ)を梏亡(こくぼう)すればなり。
 
 之(これ)を梏(こく)して反覆(はんぷく)すれば、則(すなわ)ち其(そ)の夜気(やき)以(もつ)て存(そん)するに足(た)らず。
 
 夜気(やき)以(もつ)て存(そん)するに足(た)らざれば、則(すなわ)ち其(そ)の禽獣(きんじゅう)を違(さ)ること遠(とお)からず。
 
 人其(ひとそ)の禽獣(きんじゅう)のごときを見(み)て、未(いま)だ嘗(かつ)て才有(さいあ)らずと以為(おも)はんも、是(こ)れ豈(あに)に人(ひと)の情(じょう)ならん哉(や)。

<読み方以上> 

次の文章の訳に移ります。最初に岩波文庫からです。


<岩波文庫 小林勝人訳>         
 孟子がいわれた。「牛山(ぎゅうざん)は以前は樹木が鬱蒼と生い茂った美しい山であった。だが、斉の都臨?(りんし)という大都会の郊外にあるために、大勢の人が斧(おの)や斤(まさかり)でつぎつぎと伐(き)りたおしてしまったので、今ではもはや美しい山とはいえなくなってしまった。しかし、夜昼となく生長する生命力と雨露(あめつゆ)のうるおす恵みとによって、芽生えやひこばえが生(は)えないわけではないが、それが生えかかると人々は牛や羊を放牧するので、片はしから食われたり踏みにじられたりしてしまい、遂にあのようにすっかりツルツルの禿山(はげやま)となってしまったのである。今の人はあのツルツルの禿山を見れば、昔から木材となるような樹木はなかったのだと思うだろうが、木のないのがどうして山の本性であろうか。いやいや、決して山の本性ではないのだ。
 
【A】 
 〔ただ山ばかりではない〕、人間とてもそれと同じこと。生来(せいらい)持って生まれた本性の中に、どうして仁義の心(良心)がないはずがあろうか。ただ、人がそういう本来の良心を放失してしまうわけは、やはりまた、斧や斤で木を伐るのと同じなのだ。毎日毎日、牛山の木を伐るように、物慾という斧斤(おのやまさかり)が良心という木を伐り去ったなら、どうして心が美しい〔良心のある人だ〕ということができようか。それでも幸いに夜昼となく養われている平坦の気、すなわち夜明け方の清らかな明るい心(良心)の芽生えがでてくるが、それにもかかわらず心から善を好み悪を憎むという人間らしい良心の持主がごくごく稀にしかないのは、その人の昼間の行為が折角のこの気(良心の芽)を撹乱(かきみだ)して消滅させてしまうからである。

 この撹乱を繰り返しておれば、夜にだけ養われる夜気すなわち晴明の気も衰えてしまい、良心をよびおこすこともできなくなる。そうなってしまってはもはや駄目で、それこそ禽や獣とほとんど違いはなくなる。人はかように禽や獣同然になった人の姿を見て『あの人にはもともと善を行なう素質はないのだ』ときめてしまうのは、たいへんな誤りで、どうしてこれが人間の持って生まれた本性であろうか。それ故、〔草木にもせよ、良心にもせよ〕、正しく養い育ててさえゆけば、なに物でも生長しないものはなく、養い方を間違えば、どんな物でも尽き果ててしまわないものはない。だから、孔子も『しっかりと持っていれば有るが、放っておけば亡くなってしまう。出るにも入るにも決まった時がなく、またその居場所もわからない』という古語があるが、おそらくこれは心のことを指していったものであろうよ』といわれたのである。」
 

 この岩波の訳の【A】について先ほどの「三省堂 明解古典学習シリーズ論語・孟子訳」の【A】部分を参考に引用しますと次のとおりになります。こうすることによって内容が変わるわけではありませんが「良心」という言葉の理解がはっきりわかります。ではその部分です。

【A】三省堂 明解古典学習シリーズ 
 人間(の心の中)にあるものだって(これと同じで)もともと本性として仁義の心がないはずがない(だれにでもある)。その人が良心(仁義の心)を追い払って(なくして)しまった事情はちょうど斧やマサカリで(牛山の)木を切り尽くしたのと同じことである。毎日毎日、(木を切り倒したように)良心を切り捨てたなら、とてもみごとな良心となるはずがない。日夜に成長し続ける生命力によって、夜明け方の純良な気分(良心の芽ばえ)が起こることはあっても、善を好み悪を憎む良心の働きが、普通の人間との共通点をほとんどなくしてしまうほどにもなるのは、その人の日中の行為がせっかく残っている夜明け方の純良な気分(良心の芽ばえ)を乱して滅ぼしてしまうからである。(こうして)夜明け方の純良な気分を乱すことを何度も繰り返すと、(良心を取り戻すための)夜中の平静な気分もついになくなってしまう。(良心を取り戻すための)夜中の平静な気分がなくなってしまえば、(その人間は)禽獣とあまり変わりなくなってしまう。(世間の)人はその禽獣と変わりない姿を見て、「この人にはもともと善をめざして進む素質がなかったのだ」と思うだろうが、どうしてそれが人間本性の実情であろうか。

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 上記両方の【A】から「良心」に関係する部分を抜書きしますと

仁義の心(良心)
心が美しい〔良心のある人だ〕
清らかな明るい心(良心)
気(良心の芽)

良心(仁義の心)
善を好み悪を憎む良心の働き
純良な気分(良心の芽ばえ)

となります。

 「良心」の今日的な意味である、「自分の行いに対して、善悪を判断する心」ですが、上記の孟子の「良心」に関わる部分を見ますと、大きくかけ離れた概念であることが分かります。

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 そもそも孟子が何時頃渡来したのか、思うに漢字文化とともに、大陸からの渡来者によるということは確実であると思います。6世紀の百済人による仏教典講説などの漢文を待つまでもなく、古墳時代の遺物の中には金石文が刻まれ文面があります。熊本県の江田船山古墳から出土した刀剣は有名ですが、文面からして日本で刻まれたものであり、5世紀中ごろと言われています。

 そのころには漢字を使いこなせる人または集団がいたのではいたのではないかと推測されます。孟子党にも造詣が深いとは確定されるものではありませんが、朝鮮半島の文化が中国の影響下にあったことを考えると、まったくなかったという方が少々不合理な考え方のように思います。

 万葉仮名を自由に使いこなせるころには、孟子の思想的なものも含め知識層にはその思想が流れていたように思います。

 孟子の伝来問題はこのくらいにして、「良心」の現代的な意味との相違点を告子上篇から見てみたいと思います。

 告子上には、孟子が「性善説」に立つ思想家であることが明記されています。告子と孟子の本性をめぐる論争が書かれています。本性とは人間の本質をいいます。

 人間の本性について孟子は、人間の性は善であり、不善をするのは外的な理由によるとし、告子は性は善でも不善でもないとし、導き方でどちらにでもなるとします。

 孟子は本来善である人間の本性も、外的な力によって悪にされることもあると言っているわけです。

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 現代用語としての「良心」が善悪の二者択一の世界であり、人間の本性は二元論の内にあることが分かります。一方孟子は、性善説という立場にあることからも分かるように、本性は善そのものであって、環境が本性を狂わすと言っていることが分かります。

 この思想は、前回言及した、古事記における天照大神の不善心と重なります。本来神は「うるわしきものである」ものが、弟須佐之男命(以下スサノオ)は荒れの状態に変化していると看破するところに相似的なところを感じます。

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 ここで「うるわはし」の古語についてみてみたいと思います。

 ここでは本居宣長の古事記伝(岩波文庫古事記伝(二)p100~p102)を使用しますが、古事記にはスサノオが姉天照大神に面会するために天上界に出かける話があります。

 古事記伝七之巻 神代五之巻・須佐之男命御帝伊佐知の段の「必不善心(カナラズウルハシキココロナラジ)」

と書かれています。本居宣長は「善心は、字の随(まま)にも訓(よ)ムべけれど、師の宇流波斯●心(ウルハシキココロ)と訓たるに従フべし。」と注釈しています。師とは賀茂真淵のことです。

 古語辞典(大修館古語林)には、

うるは-し【美し・麗し・愛し】(形シク)
① 対象を賞賛する意。立派だ。美しい。姿かたちが整って美しい。端正だ。
② 物の様子がきちんと整っている意。きちんとして正式だ。きちんとしている。端正だ。まちがいなく正しい。
③ 仲がよい。誠実だ。

と説明されています。ここに「端正」と言う言葉があります。「端正な服装」と言う時に使いますが、何が端正ではないか。これは非常に難しいのですが、個人の感性によると言っても通じると思います。あくまでもあなたの持つ善きものということで、それが相互に納得するところになるわけです。

 「不善心」ですから「悪心」と言う言葉は立ち表われていません。その要素が根源には無く、善心が後的に変化してゆくということを意味していると思います。これは孟子に見る「良心」の生成と同じものと言えるのではないかと考えます。

 したがって本来的に「良心に従う」とは「立派な態度」「賞賛されるべき態度」「誠実な態度」からなされるもので「善」をそのままにということを意味すると思います。

 今朝は、「良心」の日本における本来的な意味を考察しました。専門家が多分言及していることかもしれませんが、以上の考察結果を紹介しました。


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