思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

”正義 ”の主張・妥協・お互い様

2010年10月01日 | 哲学

 このごろ何かと言葉を話題にしていますが、最近否定的な考え方から気にかかると言いますか印象的な、論述を聞きました。

 一つはNHK教育の支店・論点という番組からで、「欧米で噴出する反イスラム感情」と題した同志社大学の内藤正典氏先生の話の中で、次の部分です。

          

【内藤正典】

 日本は太平洋戦争の初戦でハワイの真珠湾を攻撃しました。アメリカ国民の衝撃と怒りは、原爆の投下さえ正当化してしまいました。

 被爆地の一つ長崎は、江戸時代のキリシタン禁令にも関わらずキリスト教徒が信仰を守ってきた土地です。

 苦しみに耐えて信仰を守って暮らす長崎を原爆で灰燼に帰すという非人道的な武力の行使をためらわなかったのがアメリカという国家でした。

 しかし長崎の人々はアメリカのキリスト教徒を憎んだでしょうか。アメリカ市民の多数はキリスト教徒ですが、原爆を投下したキリスト教徒の教会など二度と建てさせないと非難したでしょうか。

 日本人はキリストの伝えた愛と平和の福音とアメリカという国家の非道な行為とは別だと分けて考えました。

 イスラムは異教徒ととの間にも和平を結び理由なき殺人を禁じています。キリスト教徒やユダヤ教徒を殲滅していいなどという教えはありません。イスラムには信者の共同体が危機に瀕した時には命がけで守るためのジハードなどの教えはあります。

 しかし信者がよほどの迫害を受けない限り、暴力的なジハードは起きませんし、誰も支持しません。

と述べ、今回のグランドゼロの近くにイスラム教の礼拝堂建設に伴う反対運動に対するアメリカ批判です。

 今夜は特に語られている内容に視点を置くのではなく、自己の主張するところの「正義論」の言葉の流れの鮮やかさに惹きつけられます。

 次に提示したいのは、これまたNHKの「知るを楽しむ」という番組からです。最近は「私のこだわり人物伝」で冒険写真家の故星野道夫さんの^著書に語られているある人物の話です。

 星野さんがアラスカ原油開発に伴う是非の問題で、開発賛成派のある政治家の言葉として紹介されているその言葉です。その言葉は次のように紹介されます。

【ナレーション】
 星野の死後間もなく対照的な二冊(ノーザンライツ、森と氷河と鯨)のエッセー集が出版されました。二冊の本はアラスカを舞台に人と自然の関わりを考えたものでした。しかしそれぞれ異なる時間軸からこのテーマに迫っています。

 『ノーザンライツ』で描かれているのは現代のアラスに生きる人々です。1960年代に油田が発見されことで、アラスカでは豊かな暮らしを選ぶのか自然を残すのか、大きな論争が巻き起こります。

 人々がどんな未来を選べばいいのか、星野は友人たちのエピソードを交えながら答えを模索します。

<『ノーザンライツ』より>

 ぼくは、友人のブッシュパイロット ドン・ロスと過ごした。
 ある夏の日の風景を思い出していた。
 気の遠くなるなる広がりの中で、壮大なカリブーの旅を見ているのは私たちだけだった。
 ぼくは”遠い自然 ”という言葉をずっと考えてきた。
 北極圏野生動物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の言ったことが、忘れられなかったからだ。
 そして彼が言ったことのほとんどは正しかった。

          

<ある政治家の言葉>
 アラスカ北極圏の厳しい自然は、観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅を見る人もいない。
 人々が利用できない土地なら、たとえどれだけその自然が貴重であろうと資源開発のために使うべきではないか。

が、私たちが日々関わる身近なしぜんの大切さとともに、日々私たちがなかなか見ることが出来ない、きっと一生行くことが出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。
 「おい、百年後、ここはどうなっているんだろうな」と突然ドンがつぶやいた。ひとつの時代を見送るかのように立ちつくしていた。
 
自然保護運動の話をしようというのではなくここでもただ言葉として見ていきます。
 ここで語られる<政治家の言葉>
 
 >アラスカ北極圏の厳しい自然は、観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅を見る人もいない。
 人々が利用できない土地なら、たとえどれだけその自然が貴重であろうと資源開発のために使うべきではないか。<

この政治家の語る自己の”正義 ”論は、実に星野が言うように「正しい」ように見えるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 内藤正典先生の言葉、ある政治家の言葉、語られる場においてそれぞれに正反対の”正義 ”の語りです。

 人の思想から語られる”正義 ”の言葉は、理路整然とある視点で整っている。受け取る側は、自分の身がどこにあるのかを知る。それはその言葉と自分の感慨との照合である。

 宗教論争、平和運動、自然保護運動そこに繰り広げられるそれぞれの立場の”正義 ”論は、非常に妥協を許さない、想定させない何かがある。

 その中に可謬性を持ち得ることは相当の人格者で無ければ不可能のように思われます。

 妥協、お互い様は非常に難しい次元の話に見えてします。共同体における「共通善」に到達するためには、何かを捨てる必要があるように思います。それは何か、それに気づくことが意見の異なる他人が共同場に生きる智慧なのかもしれません。

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2 コメント

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内藤先生が出てきたので (nabesan)
2010-10-01 23:57:18
こんばんは。
最近このブログと出会い、ゆっくり読ませていただいております。
内藤先生は、高校講座の世界史でも講師を務めておられて、そちらでは、「イスラーム」と発音されていました。私はその高校講座の方で内藤先生のファンになりました。
「視点・論点」の内藤先生の話は説得力がありました。さすがです。
返信する
ありがとうございます。 (管理人)
2010-10-03 14:58:01
>nabesan様
コメントありがとうございます。

 最低一日一文の掲出することを愚直に実践しています。このように書くと自分に課した何か強迫観念に思われそうですが、まったくそうではありません。

 思考の志向性、視点の方向等の不思議さに惹かれ、過ぎ行く一日の中にこの命題を探すと限りなく存在しています。問題意識という大それたものではなく、単に人の話に耳を傾けることと、分からないこと、不確かなことは自分の目で検証することとしています。

 しているというよりも、そうしないではいられない性格的なところ、と言った方がよいかもしれません。

 一番の問題は、見直す時間を設けずひたすらまとまり次第アップするため、誤字脱字等また、著観で書き綴るため一貫性に欠けるという欠陥があります。

 したがって少々精神的に不安定な作者と思われるかもしれませんが、自分でもいうのはおかしいのですが普通の人間で、二子の父、そしてあと4年ほどで退職になるそれなりの人間です。

 話があらぬ方向に入ってしましましたので修正します。

 内藤先生の語りは実に視点が整っていて、反証ができないところまでしっかりつかんだ論述に思えました。

 「イスラーム」は、故井筒俊彦先生もそうでした。何でもそうですが原理化すると排他的に過激になってきます。重要なのは自分がどのように理解して自分のものとするか、ということだと思いますが、共通の場に全てを任せると、自分を失うものです。

 私のブログがなぜ哲学の森の「仏教」ブログに参加しているかと言うと、この「仏教」ブログは実にユニークです。

 「『真理』はここにあり。」という教えがたくさんあり、すべてが人の幸せを願っています。その中には社会的に問題を振りまいて、その被害者のもお会いしたことがありますが、その問題点は別にしてその人間性の不思議に惹かれてしまいます。

 長々と書いてしまいました。最後の「ボツ写真」の中の「ネコちゃん」は私の飼い猫「ソラ」に毛色、模様、目つきがそっくりでびっくりしました。

 今後もよろしくお願いします。
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