昨日は、東井義雄先生の「仏の声を聞く」から「たゞごとではない」話を書きました。この話については、自分の過去をたどれば今から7・8年前にさかのぼります。
仏の声をきく(1)2005.9.11
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/3a1bde34ef45550853459c2aa0c1fa28
仏の声を聞く(2)2006.5.21
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/eedfe4ab0a6e95a92310f30f20903f78
要約すれば「今現在説法」という言葉に集約されます。その当時はほとんどV・E・フランクルの「人生から期待されている自己存在」「人生は、どんな状況でも、意味がある」「苦しみや、死にさえ、意味がある」等の言葉、そのように人生絶対肯定論者であるフランクルを全く意識していませんでした。
そのような現況化にある私にコメントが来ました。「偶然は偶然ではない」と思う私にとっては貴重なコメントで、2011.1.22付「自分自身へと向かって行く小径(こみち)・ヘッセ・小塩節」というブログに記事に関して書かれたものでした。
「自分自身へと向かって行く小径(こみち)」
ドイツ語の大家小塩節(おしおたかし)先生のドイツ語のラジオ番組(NHK教育)で、先生が紹介されたヘルマン・ヘッセ(1877~1962)の作品の中の一節です。
この言葉を聞いたときに、今思うと、直感ではなく直覚という表記の方が的(まと)を得てるのかも知れませんが、覆われた表皮が剥がれるような感覚を受けました。
ヘルマン・ヘッセの小説『デーミアン,エーミール・ギンクレーアの青洲の物語1919』の中の、
訳文
どの人生も、自己自身へと向かって行く道である。ひとつの道の試み、ひとつの小径の暗示(小径を思わせるもの)である。
小塩先生は、これに関連して、
Das Leben...ist ein Weg.人生は道である。
堂々と歩む大道というより、細くとも、世間に見せるためのものではない、自分自身になろうとする「道」。それはおぼつかなくとも、自分の足で踏んだ跡を何とか示す小径かもしれぬ。深く自らに至ろうとする志がここにあります。
と解説されていました。
人生において<自分>というものは、「問う存在でもあり、(また)、問われている存在でもある」と今現在の私は思うのです。これは他者から見ればこれほどの矛盾はないわけで理解不能に違いありません。これほどの自己矛盾はない、といったところでしょう。
数日前に、「風土論から見えてくるもの、A・ベルク、三澤勝衛」で、
A・ベルクの「通態化(trajection)と三澤勝衛先生の「一元一体的」の話を書きました。
メビウスの輪の平面上の一点、ここには永遠性のなかに表裏が一体として存在し、一方一枚の白紙の表裏にあっては接する点には表裏がそのままあり、それは永遠の拡がりの中にあります。
風土論を外れて、こういう思考のあり方を示されると、人生そのものと重ね合わせたくなります。表が善で、裏が悪という価値性の中におくのではなく「思いのあり方」の現象の中に、常に表裏の選択が置かれている、そんな思考の世界です。あくまでも形而上学的な話です。
どの人生も、自己自身へと向かって行く道である。
この道はどこに描かれるだろうか。メビウスの輪の平面か、それとも一枚の永遠の拡がりの平面に描かれる道なのだろうか。
先ほど「問い」の話の中に「(また)」を入れましたが、これだと時差的な選択思考が生じてしまいますが、「問う者、問われる者」も同時存在です。「たゞごとではない」という「今現在説法」を、東井先生は「拝まない者も おがまれている」と言っているのだと、コメントを頂いて思いました。
どちらかというと一元一体的な人生と表現したいと思うのです、空間におけるあらゆる方向性に広がる平面に描かれる小径、今現在においてはどうしても価値性の表裏に意識が向けられます。
「なぜなのだろう」と考えたときに思い出すのが古代ギリシャのアリストテレスです。
<アリストテレスのプシュケーから>
・・・・・アリストテレスは、プシュケーのはたらきとして、営養的(トレプティコン)、感覚的(アイステーティコン)、欲求的(オレクティコン)、移動的(キネーティコン)、思考的(ディアノエーティコン)の五つの能力を認めた。
生物と呼ばれるもののうち、あるものは、これら五つの能カのすべてを有するが、他のあるものは、これらの能力のうちのいくつかを有し、さらに他のあるものは、これらの能力のうちの一つだけを有する。
つまり、植物は営養的能力をしか有しないが、動物は感覚的能力を有する。したがって動物は、快・不快を感じ、快を欲求する。さらに動物は移動的能力を有する。動物のうちでも人間だけほ、さらにそのうえに、思考的能力を有する。最下位の営養的能力は、すべての生物に共通するが、最上位の思考的能力、すなわち理性は、人間だけにかぎられる。
してみると、アリストテレスでは、プシュケーという語は、ゾーエー(生命)という語と、ほとんど同じ拡がりをもつことになる。ソクラテスでは、いわば人間的プシュケーだけが関心のまとであったのに、ここではプシュケーが生物全般に行きわたっている。こういうことは、現代にも見られる。たとえば、コンシアンス(意識)という語は、ベルグソソでは、ヴィ(生命)とほとんど同じ拡がりをもつのに反して、サルトルでは、人間の意識だけに限定される。・・・・・略
<以上『死の思索』(松浪信三郎著 岩波新書)p77~p78>
松浪先生の著書は、サルトル、実存主義を知悉したくなるとどうしても出会う先生でとてもわかりやすい解説をされている(個人的にそう思う)方で、上位の思考の中でこの言葉を思い出しましたので、引用しました。
「自分自身へと向かって行く小径(こみち)」
理性によって、生命によって、意識によって、これらを言葉としてのみ置くならば、言葉の思考によって人は考え続けます。それらはすべての表裏の一点において置かれてです。
<自分>という言葉は、純粋な日本語。「おのずから分けて、みずからの身に統合される」のが「自分自身」とも思えます。
「どの人生も、自己自身へと向かって行く道である。ひとつの道の試み、ひとつの小径の暗示(小径を思わせるもの)である。」(ヘルマン・ヘッセ)