思考の部屋

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TBS「伝説の引退SP」を観て思うこと

2012年10月09日 | 思考探究

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 昨夜TBS系の放送局で「壮絶・・封印された過去 私はなぜやめたのか・涙と後悔・・伝説の引退SP」という番組が放送されていました。

 サイト紹介からですが、「輝かしいキャリアからの引退ほど、その裏には壮絶なドラマがあった。 スポーツ史に残るレジェンド(伝説を残した人物)たちが、 自身の引き際の封印を解く(TBS×WOWOW共同制作ドキュメンタリー!)」と書かれていて、TBSとWOWOW、二つのテレビ局による、スポーツ史に残る輝かしい実績を残した伝説的選手(江川卓・千葉すず・千代の富士)たちの引退するに至った経緯をその「引き際」に焦点を当てて、そこで展開された決断への選択が感動的に語られていました。

 個人的には、人生における偶然、必然、人生のもつ意味、そこに期待されるもの等の哲学的な問いを深く思いました。

これもサイトからの内容紹介になりますが、

<内容>
1 千葉すず【孤高の美人スイマー 悲劇の引き際】
  ロンドンオリンピック2012で戦後最多11個のメダルを獲得した日本競泳陣。その礎を築いたとされる、元祖美人スイマーがいる。
  今から20年前のバルセロナオリンピック。当時高校2年生の少女は、日本人には手が届かないと思われていた自由形でメダルを期待される若き大エースだった。
  しかし、彼女はメダルに届かず、代わりに全くの無名だった後輩の岩崎恭子が金メダルを獲得した。4年後のアトランタオリンピックに際し、ある番組で発した「勝負より楽しみたい」などの発言が日本中のバッシングを受けることになる。その後、一度は競技から離れたが、1999年に復帰。日本新記録を樹立して完全復活した。
  翌2000年。シドニーオリンピック代表選考を兼ねた日本選手権でも優勝。当然代表に選出されると思われたが、落選。彼女はひっそりと引退した。
  引退以降、マスコミの前に出てくることはなかった彼女が、12年の封印を解いて初めてすべてを告白する。

2 江川卓【いまだ謎の多い怪物投手 引退の真相】
  高校時代から桁はずれの快速球で怪物投手と呼ばれ、入団時には、空白の一日と呼ばれる事件を起こした今も記憶に残る巨人軍の名投手。
  そんな彼は、プロで輝かしい実績を残しながら、わずか9年目、32歳の時に突然引退を発表した。
  そのきっかけとされるのは、1987年9月20日、対広島戦。当時広島のクリーンナップとして活躍中だった法政大学の6年後輩である小早川毅彦に、自分にとって最高のストレートを逆転サヨナラ本塁打を打たれた時とされる。
  しかしその真実は、今まで語られてきたものとは違っていた。
 この年、新たに現れたライバル桑田真澄の存在が彼の引退に大きくかかわっていたという…。
 
3 千代の富士【昭和最後の大横綱 引退会見までの壮絶な48時間の葛藤】
  通算1045勝、幕内優勝31回など、数々の大記録を達成した昭和最後の大横綱。
 しかし、1990年に入ると大横綱にもかげりが見え始め、迎えた1991年夏場所初日の対戦相手は当時18歳の新鋭、貴花田。かつて貴花田の父を破り、引退に追い込んだ経緯から、日本中がこの一番に注目した。そして大横綱は18歳の新鋭に敗れた。相手が当時人気急上昇中の貴花田だったためその敗戦の印象が強く、その日のうちに引退を決めたと思われがちだ。しかし、引退を表明したのは3日目の取り組み後だった。貴花田に敗れてからの48時間、その時間には、引退を決意するまで壮絶なドラマが隠されていた。そのドラマが初めて明かされる。
 
以上の三名の方の引退時の出来事、「そういえばそういうこともあった。」程度しかなかったのですが、番組を観て一人一人の人生の重み、重ねる人生における選択の深層がよく表わされていたと思います。

 最近ヴィクトール・フランクルの「どんな時も人生には意味がある」という思想や「偶然のもつ意味」等に興味を持っていただけに、番組の放送を観る機会の偶然も重なり、世の不思議を感じました。

 偶然は必然の否定である。必然は因果関係論で説明される。そこには目的論的な要素が含まれる、などとたゞ単に現前に展開される出来事に「何がしかの理由を付けないではいられない」人間の性(さが)があるわけですが、すべてが不思議なのです。

 コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授の「選択の科学」からいえばそこには直感や理性的な選択の判断が展開されているのですが、江川さんが「スポーツの神様がいるとするならば、こうなる運命の選択」旨を語っていたのが印象的でした。

 何度も繰り返す「偶然」に付随する話ですが、人生におけるその地点を、はるか彼方から鳥瞰的にパースペクティブに見つめ、そこに展開される森羅万象の動きも含め、人々の心の動きをも瞬時に感覚し、意識的な理解する者がいたとするならば、その者からすれば「必然」のことでしかありません。

 たゞ単に現象があるだけ、お決まりの出来事、パンドラの箱は閉ざされることなくすべの災厄が飛び放たれた、ことと同様な話になってしまいます。

 放たれれば、来たる未来をすべてを知るところとなってしまう。が究極の災厄です。
 呼ぶならば「前知魔」よりも「全知魔」の方がよいのでしょうか、その存在の意味に対応するのが誰もが知るところのパンドラの箱に残された唯一のもの、「希望」でした。

 「たゞ単に」の虚無的な現実に、「希望」という目的論的な発想があるのはなぜか。

 「そんなものは無い」と断言できる勇気を私はもっていません。

 今ならば話すことができる出来事、上記の三名の人生は、そう語られていました。その時はひたすら運命の船の舵を切っていた、操っていたのですが、今現在になれば「それがそれであって、そうなる運命」を形作ったと説明されるわけです。

 ヴィクトール・フランクルの場合は、「夜と霧」のその時に、それをメモリ続けた、「意味がある」と。

 哲学者はそれぞれの問いを持って、思考の展開をはかります。心理学者しかり、科学者しかり、そこには「人間とは、問いの存在である」が導き出されます。

 問いを失った者は、唯一くり返すことが救いになる。そう言い聞かせることが救いとなる。

 その一方では、日々を熱心に生きる、今あるその一瞬に全力を傾ける者がいる。問いは常にその存在の根底に残され意志の力となるのではあるまいか。

 無念無想は、すべての問いを放棄したわけではなく、無分別の智慧の世界だと思う。

 スポーツ選手の場合は身体とも深くかかわる世界に生きている。苦しんだからこそ、過去という宝ができる、そうも見えました。

感動の中に意味が通じないことを書き綴ったかもしれませんが、「伝説の引退SP」(TBS・WOWOW)深みのある番組で感動しました。

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