思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

東洋の智慧をたずねて~中村元博士の世界~・Eテレこころの時代を観て思うこと

2012年10月08日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 日曜日の朝に余ほど時間がない場合を除きNHKの「こころの時代~宗教・人生~」を観るのが習慣になっています。昨日は「東洋の智慧をたずねて~中村元博士の世界~」と題して東京大学名誉教授前田専学先生と聞き手金光寿郎さんとの対談的な番組でした。

 番組紹介では、

 従来、漢訳教典だけに基づく研究が多かった、インド思想や仏教思想などの東洋の思想。それを中村元は、インドのサンスクリットやパーリ語、チベット語の経典にまで目を通した上で、一般の人にも分かるような平易な言葉で、しかも世界の学問水準を超えた研究成果として次々に発表し、世界の思想界に東洋思想が持つ独自の意味を知らせた。番組では、中村の碩学(せきがく)の豊かな世界を紹介する。

と書かれていました。「碩学の豊かな世界」の碩学を改めて辞書で調べると「学識が広く、深い人。また、その人。」と説明されており、中村先生をイメージした時に想うところ示した言葉に思います。

 今日のブログは番組内で語られた部分を含めて思うところを書いて行こうと思います。

 中村先生には膨大な著書があり分厚い全集を含め何冊か持っていますが、最初に手にして読んだ本は何かと言うと岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』でした。仏教書で最初に読んだ本がこれなので鮮明に覚えています。今ではワイド版もあり目に優しいので手の届く範囲に置いています。聖書の新旧もこの範囲にあり、考えてみると何を身近に置いているか、ということも個人的な思考世界の構築姿勢を物語るような気がします。

 この『般若心経・金剛般若経』は中村先生と紀野一義の共著です。

  「全治者である覚った人に礼したてまつる。求道者にして聖なる観音は、深遠なる智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。・・・・・」「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。」

の現代語訳は、経と同等に私自身に在るものです。災厄のおとずれの中で歴史的に多くの人々の唱和した経だけに、その歴史性も含め尊いものと思います。昨日のジョギングの際にも古刹に、樹齢400年の大木の前に唱えさせていただきました。

 宗派を超えてこの経が好きだという人もいれば、耳をふさぐほど毛嫌いする人もおり執着(しゅうじゃく)という言葉の意味深さを感じます。

 番組では中村先生の比較宗教、世界の思惟方法の研究から前田先生が、次の中村先生の言葉を紹介されていました。

 われわれは以上の考察によって人類が一体であることを知り得た。思想は種々の形で表明されるけれども人間性は一つである。
 今後、世界は一つになるであろう。
 世界の哲学宗教史に関するこのような研究が、地球全体にわたる思想の見通しに役立ち、世界の諸民族のあいだの相互理解を育ててそれによって人類は一つであるという理念を確立しうるに違いない。それを切に願うものである。

 あらゆる宗教の切り口は一緒と言う考え方に重なるもので碩学の言葉であること再度噛みしめたいと思います。

 西洋の思想はエジプトの死者の思想から始まる旨の話も、改めて思い出しました。仏教研究は大航海時代を経て数多くの仏教経典が西洋にもたらされ研究されていましたが、その際に金光さんが「インドでは仏教が死んでしまっている・・・・」という話に、西洋の学者はエジプトの死者の思想の思惟方法で、仏教経典を研究したという意味を中村先生は言っているのであって、その他のアジアに今も仏教があります、に訂正されていました。

 こういう会話を通して「死んだら・・・」と「生きるには・・・」という問いの思惟視点を思うと論理展開、観念転回がわかるような気がします。

 なぜコペルニクス的な思考転回が必要になるのか。

生きている人間が考えるのですから、そうでもしないと意味理解ができないということに尽きます。

 番組では金光さんから晩年の著書の『自己の探求』(青土社)の中の言葉が紹介されていました。その言葉を紹介する前に上記の関係するのですが、この本の帯に「はしがき1980.10付」の言葉が書かれています。

「自分自身はどのように生きたらよいのであろうか?」

この言葉が、本の第一ページの文頭の言葉です。まさに「生きるには」の東洋的思惟方法の根源を示しています。

 蛇足ですがこの「はしがき」には「鸚鵡(オウム)のような口まねのような学問は、したくない。」という言葉も書かれていてこの「、」がいかに先生がそう思うのかよくわかります。引用ばかりする私自身の戒めを強く思います。

 「オウムのような口まね」

 執着を抜けきらないとこういうことになる、事例をよく見ます。まるで催眠術にかかったように繰り返される言葉、経典を読むが如くにくり返される。解説なのか経典なのか、その区別もできなくなった典型的な例です。止揚なり、編成替えなり、向上なり、絶対的な矛盾の世界にあって、その矛盾をどう克服させていけるか、その矛盾どう気がつくか、そこに大きな覚りがあるように思います。悟りではなく覚り、覚せいであって、朝目覚めて仕事に出かけるということです。

 そうすると燦燦と降り注ぐ太陽の光に気づくわけです。「本当に生きてるなぁ」と。

ここで金光さんのこの『自己の探求』からの言葉す。紹介された言葉はこのページの一部ですが、分の区切りで、前頁から紹介したいと思います。

<『自己の探求』(中村元著 青土社)から>

 ここにおいては、<他力>とか<自力>という既成観念は意義を失ってしまう。<神>という観念も色あせてしまう。擬人視されて考えられた(神)などは、あまりにも微小なものになってしまう。
 
 ひとは全宇宙に生かされているのである。各個人は、全宇宙をそのうちに映し出す鏡である。この意味において各個人は(小宇宙)であると言えよう。ただしその(小宇宙)なるものは、他の(小宇宙)と代置され得ないところの(小宇宙)なのである。
 
 このことわりを理解するならば、極端に離れて対立したものである<小宇宙>が本質的には<大宇宙>なのである。<小宇宙>は<大宇宙>と相即する。
 
 個体としての行動は、他から隔絶されている<個体>が行動するのではない。<大宇宙>の無限の条件づけの一つの<結び目>が行動しているのである。
 
 こういう視点にまで到達すると、自分が真理をさとるのだと考えることはできない。全宇宙が自分をして真理をさとらせてくれるのである。
 
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。方法すすみて自己を修証するはさとりなり。』(『正法眼蔵』現成公案)
 このことわりを知ることが、いわゆる<さとり>であろう。
 
 浄土教の信者のあいだでは、
 「わたくしが・・・・・する」
とは言わないで、
 「わたしは・・・・・させて頂く」
という表現をよくする。さらにそれは日本人一般を通じてよく見られる表現である。ここには他力信仰がよく出ているのであるが、限られた存在としての自分のできることではないが、多くの人々の意向を受け、天地自然の恵みにあずかり、たまたま自分がこれこれのことをすることができるようになったと自覚しているのである。

<以上同書p73~p75>

 金光さんは長い文章なので「 ひとは全宇宙に生かされているのである。各個人は、全宇宙をそのうちに映し出す鏡である。この意味において各個人は(小宇宙)であると言えよう。ただしその(小宇宙)なるものは、他の(小宇宙)と代置され得ないところの(小宇宙)なのである。」という部分だけを紹介しました。

 本来ならば、上記の引用部分を紹介したいところなのですが(個人的に私がそのように思うだけですが)、金光さんはそうしたのです。なぜ本来ならば前田専学先生から出てくるものかと思ったのですが「華厳」の一言で済んでしまいました。それは前田先生の研究視点にあるからだと思し、前田先生は、「慈しみ」という中村先生が東方思想研究所への思い入れを重視しするからです。

 生前に撮られた墓碑に刻まれた「慈しみ」のスッタニパータの言葉、

「ブッダのことば」
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
一切の生きとし生けるものものは、幸せであれ。
何ぴとも他人をあざむいてはならない。
たといどこにあっても他人を 軽んじてはならない。
互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。

この言葉とともに中村先生の姿がありました。

この言葉の全文は、『ブッダのことば』(岩波文庫)の第一蛇の章、八「慈しみ」に145~151の部分、

 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも、強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものものは、幸せであれ。
 何ぴとも他人をあざむいてはならない。たといどこにあっても他人を 軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
 あたかも、母が己が独り子を命をかけても まもるように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。
 また全世界に対して無量の慈しみのこころを起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。
 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。

から先生の意志で抜粋されたものです。

ということで今回の「こころの時代」の「東洋の智慧をたずねて~中村元博士の世界~」改めて中村元先生の思想を勉強しました。

最後に個性を出して、

「・・・・・・自分が真理をさとるのだと考えることはできない。全宇宙が自分をして真理をさとらせてくれるのである。・・・・・・」

ここに何を観るか、「人生の意味」「運命から期待されている自己」が重なり、「自分をして」とは「おのずから」「みずから」の間を超えた表裏から湧きだつはたらきを思います。

 現象とは差異であって、個人的に「色即是空 空即是色」ではたらきを観ます。大乗の世界でコメを食べる時にそのありがたさを知らずして「玄米四合とわずかな野菜があれば・・・・」の意味理解も不可能なように思います。

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