思考の部屋

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人を裁くということ(8)「人間存在は墜落存在だ」

2009年12月26日 | つれづれ記

 作家坂口安吾の『墜落論』から哲学者諏訪東京理科大学共通教育センター  関塚正嗣教授は、その著『哲学の誘惑』の中で次のように読み取っています。
 
 関口正嗣先生は人間の元来は、つまり人間の基本的なあり方は、墜落にある。これを、「人間存在は墜落存在だ」と言い直してもいいでしょう。人間は肉体を持っている。だから、本能をもっているし、食べなければ生きていけない。人間はこれを「人間の弱点」とみなして、それに対する非人間的な防壁をいろいろ考え出した。安吾によれば、「忠臣蔵はニ君に仕えず」とか「節婦は二夫に見(まみ)えず」とか「処女の純潔」とか「天皇制」といったものはみなそういう「人間の弱点」に対する防壁だというのですね。そういったものが、立派で、「美しいもの」とされてきた。

 人間とは本来どんな存在なのだろうなどと考え、このような文章に出会うと凄く衝撃的で、また感嘆するのです。

 経験から得られた感慨ほどリアルなものはありません。坂口安吾という作家が導き出したもの説得力のある墜落論です。

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 12月12日の「県内初めての裁判員裁判結果から」で殺人罪に問われた被告人(46歳)のことについて書きました。評議の結果判決は「懲役22年」というものでした。

 控訴期限の24日、この一審判決を不服として東京高等裁判所に控訴しました。新聞記者が拘置先の長野拘置支所(善光寺からさほど遠くない長野県庁の近くにあります)で被告人に接見して控訴理由を聞いたところ「裁判員が正確な判断ができたのか疑問がある。プロの裁判官に判断してほしい」と語ったそうです(12月25日付信濃毎日新聞29社会面)。

 全国的に報道される有名な殺人事件とは異なり片田舎で発生した事件、殺人の背景にある暗さが目立つ事件で、第三者的に見て「被告人に不利」な裁判員制度を見たように思います。

 この殺人事件は、「人間存在は墜落存在だ」という言葉を証明するかのような事件でした。当事者間には共通の「人間の弱点」が見えます。仏教でいう「愛欲」の業が織り成す墜落存在の場に当事者はいたということです。

 このような事件でなく、国選弁護人でなく駆け込み弁護団が担当するものならば双方の「墜落存在」が情状酌量の評定に影響したように思います。

 裁判員制度反対の中には「被害者に対する批難要素」が、評議に不利になるという指摘があります。

 どうしても人間は、「人間回復」を「反省態度」に見ます。明らかに反証ともいえ行為に至る必然性に相手の関与を主張することは、如何にも被告人の悪性を強化するものとなってしまいます。

 今までの裁判制度ならば、当然行われて情状の酌量要素が半減しているといてもよいような気がします。

 新聞では短絡的に”「短い公判」が問題を投げ掛けている”と書いていますが、長い審理でも「被害者のマイナス要素」を被告人の酌量要素には出せない環境が存在することの方が最重要課題のような気がします。

 「人を裁くということ」これは本当に一般国民に背負わせてよいものか、考えさせられる問題です。

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