思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「萩」と「天鼓」

2009年12月20日 | 仏教

 今日は冬晴れ、陽が射し積雪を融かしてくれそうです。朝陽に照らされる真っ白な雪。とても輝いている朝です。 

 NHK教育の「日めくり万葉集」が、選者檀ふみさんの歌だ番組が終了しました。檀さんの優しい語りや、詠みで番組は進められていました。朝の早い時間帯、日曜日の一週間分の再放送で見る機会を得ていました。

 最後の歌は巻3-455

かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも

 天平3年(731)7月25日(太陽暦9月4日)、大納言大伴旅人は薨(こう)じた。その時、資人(しじん・従者のこと)余明軍は五首の挽歌を作り旅人を追悼した。

 余明軍という従者は、主人であるたびとの死が悲しくて悲しくてしょうがない。かつて旅とは萩の歌を何首か詠っています。それと重ねあわしながら故人を思い出しています。

 余明軍の旅人挽歌は続きます。

 巻3-456
 君に恋ひ いたもすべ無(な)み あし鶴(たづ)の ねのみし泣かゆ 朝夕(あさよひ)にして
 巻3-457
 遠長(とほなが)く 仕へむものと思へりし 君いまさねば 心どもなし
 巻3-458
 みどり子の 這ひたもとほり 朝夕(あさよひ)に ねのみぞ吾(わが)泣く 君無しにして

この後にも挽歌はあるのですが、私は主人を思う気持ちが大変よく分かる歌であるように感じ熱いものを感じます。

 専門家の批評とはこれほどまでに厳しいものかと思うことがあります。土屋文明先生は除名軍を高く評価しません。

 「挽歌としては形式的である」「感銘希薄になっているように見える」「結局常套的な歌になっている」

どうしても、上手な作り手ではないという評価です。
 檀ふみさんは、亡き父檀文雄先生の思い出の「萩」と遺された蔵書の万葉集注釈書に父の原稿用紙の紙片の栞が入ったところに、この歌があり、詠われる「萩」に想い出が重なったと語られていました。

 檀さんの姿や語り口がとても静かな流れの中にあって、余明軍の歌が響きわたります。

 善いも悪いもないとても感動的な歌でした。

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 私の話はあちらこちらへと飛んでいけませんが、響くという言葉で、法華経の話を少々したいと思います。

 又細抹(さいまつ)の栴檀(せんだん)・沈水香(ちんずいこう)等を雨(ふ)らし、虚空の中に於いて天鼓自ら鳴って妙声深遠なり。

という言葉が、分別功徳品第17にあります。
 「天鼓」は、天の鼓で、教えを衆生の住む世のなかにひろめる働きをいうことで「法鼓」と「毒鼓」に分かれます。

 「法鼓」は、仏の教えとはこういうものだということを世に知らせることで、これは「そうか」と合点がいくのですが、「毒鼓」という「世俗の人の考えがまちがっていることを徹底的に説いて、その迷いを打ち砕いてゆく働き」というものに、戸惑い感を持ちます。

 法華経は力強いお経ですが、端々にその強さに圧倒されるところがあります。読み、理解が浅いこともあるでしょうが、単純に受けると我(われ)が打ち砕く主体になるおそれを感じます。「働き」であって受ける側は、仏になる前の私です。主体ではないそう思えてなりません。

 「響き」というものは「萩」が時を越え、人を超えて永劫の回帰の一点にあるように、そこに働くものだと思います。

 「天鼓」は総体的なものそのものであって「働き」はその「響き」、受ける私をしっかり整えていきたいものです。

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