思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

今朝の安曇野

2009年12月06日 | 風景

 一段と寒さが増しました。相変わらず安曇野から松本平にかけては熱い霧におおわれています。    

     
 雑草の緑の葉には、今朝は霜が降りました。

     
田圃のあぜ道を進むと、サク、サクと音がします。音からも寒さが響きます。

     
 返り見すれば月有明山に傾きぬです。有明山の樹氷が朝陽に照らされ輝いています。

      
 太陽が徐々に昇っていきます。


「夕菅(ユウスゲ)」に学ぶ

2009年12月06日 | 仏教

 NHK「日めくり万葉集」のテキストには、朗読を担当している檀ふみさんのエッセイが掲載されています。

 今月12月号は最終回「望外の幸せ」と題して、さる夏の夜天皇皇后両陛下のお招きを受け、宮中に行かれたときの話が掲載されています。その文中に

 「こちらを、お見せしたかったのです」という美智子妃殿下のお示しになられた先に軽井沢で採取されたユウスゲの花の群生がていえんの街頭に照らされ揺れていた。

という話があります。「ユウスゲ」この花の名にビックリしました。田んぼの畦などにポツンと咲いているユリ科の黄色い花。素朴な花なのですがかすかな甘い香りがする花でどこからか風に乗せられ漂ってきます。

 伊那谷の老子の加島祥造先生が好きな花で、著書で語られていてどんな花かと調べて何のことはない身近な花でした。しかし人間とは不思議で、その時に加島先生の気持ちがとてもよくわかったのです。

[幾たびかの夏が過ぎて]

 その草と私との最初の出会いはごくゆきずりのものだった。小屋ができてから二度めか三度めの夏だった。夕方の散歩に出て、帰途に農家の裏手で目にとまった。それは低い雑草の間から青い長い茎をのばし、その先に左右にわかれた黄色の大輪の花を二つつけている。とくに心を惹かれたわけではないが、折りとって小屋の壷に挿した。その夜この花が芳香を放つのに気づいた。
 ただこれだけのことであり、ここを去るとともに忘れ去って、次の夏にきたときはこの草と出会わぬまま思い出しもしなかった。その後ある人からこの花は野かんぞうだと聞き、そのまま信じこんだ。それほどに私は野の花の草花にうとかったが、それは私が根っからの都会育ちであったからだ。
 花に会ってから五年めの夏に、田圃の畦に立ったひと本(もと)を根ごと掘りだしてきて小屋の外に植えなおし、夕方にベランダに出たときその花に目を楽しませたし、それが本当はかんぞうではなくて夕菅(ゆうすげ)だとも知った。しかし都会にもどるとそのまま忘れてしまった。
 次の夏に友人の車で夕方にここについた。すると小屋の傍の同じ場所にこの花がひっそりと立ち、頭にひとつのレモン・イエローの花をつけている。それを見て私は驚嘆した。はじめて自分がここに「帰ってきた」と感じ、この花が私を迎えてくれたと感じた。
 そのころから私はこの草花を描きはじめたのであり、その画作に自分の歌や詩句を書きそえるようにもなった。

 夕づきて咲くさだめなる野の花は
   色におとらぬ香を放つかな

 ここにくるごとに、こんな遊びが幾夏かつづいた。画作のほうはあまり変わらなかったが、歌のほうは年ごとに少しずつ変わっていった。歌はこの小屋での自分の心持を反映しやすかったからだ。

伊那谷の夏は過ぎ去りやすい。八月の旧盆のころには、はやくも秋の気配が生まれる。町ではいろいろな催しがあるが、打ち上げ花火だけはこの小屋からも見ることができる。子ども自分には両国の花火を家々の屋根の波のむこうに見たものだが、いまは、この谷で、下の町の遠い花火を見やっている。それは私なりにひとつの感慨である。そして旧のお盆の終わるころになると、さっと雨がきてそれがいつしか初時雨になる。そんなおりに詠んだ歌を色紙の夕すげ図に賛して壁にかけたこともある。

 夕すげの庵と名づけ住みくらす
  夢より覚めて秋雨を聞く

「一茎有情(いっきょううじょう)」という句は、宇佐見英治・志村ふくみの感銘ぶかい「対談集」の題名であり、もとは道元禅師の『正法眼蔵』にあると宇佐見さんは書いている。この句の心は、長いこと感じ取れぬままだったが、幾つもの夏を夕菅とかかわってきて、ようやく自分なりに肯(うなず)けるようになった。この草は私の内にある自然への情を引きだした、そして幾つもの夏を重ねながらその私の情を培い、養い、成長させたのだ。都会育ちのために、自然への愛情にうとかった私は、夕菅の花に導かれたーーーそしていま、そのように自分の感情が自然にむかって深まったことに、驚きの念を覚える。

 東洋では歳月を春秋でいい表すことがある。「春秋を経て・・・・・」という。英語では春秋のかわりにsummer(夏)を用いることがある。after many summersといえば「幾年かが過ぎて」の意味である。それというのも西洋、とくに北欧的風土の国では、夏が最も記憶に残る季節だからであろう。それは短いゆえにことさら輝かしい日々なのだ。伊那谷の高原もまた同じであり、ここでは清い爽やかな初夏のあとで峰みねの上に白い積雲の立つ日々が二、三週もつづくと、早くも草地に虫がすだきはじめる。
 短な夏の夕暮れに、この草は野末にすっと立って玄妙なレモン・イエローの花をひらき、清貴な香をかげば世の憂いを忘れるのだが、一茎の草にこういう深い情を感じるまでになるのに。私は十一度の夏を迎えねばならなかった。

 陽の入りてわが道くらくなりまさる
   野末を照らすひと日花かな
(『伊那谷の老子』加島祥造著 朝陽文庫P61~65)


 皇居での夕菅があって加島さんの伊那谷の小屋に夕菅がある。檀さんの万葉集との出会いがあり、美智子様の夕菅がある。淡々として夕菅がある。

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 哲学者中野孝次先生は(『道元断章』岩波書店)の中で

・・・山には霊が宿り、人はその霊を畏れたのである。畏れ敬う心が、山河に古仏の道のあらわれをまのあたりに見たのだ。心が山河大地であるためには自然でなければならぬ。自然を畏れ敬うことなしに、心のみ澄むわけにはいかないだろう。だから禅僧はそこに入って三十年、四十年の修行をして仏となった。そういう聖なる場所が古の山水であった。

と語り、

 山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり、賢人聖人によりて山は現生成り。(山水経)

を揚げ、

 山奥で修行した人たちの孝徳によって山の聖性が作られた、と道元は考えるわけである。

と述べている(同書P127)。このような文章を見るとあ然とするようになりました。なんと短絡的な思考なのか。坐のない思考の帰結は、、

・・・・・それが清浄そのものの自然だからで、発砲スチロールや缶やゴミに汚れた今日の山河は、まずダメとしたものではなかろうか。自然を破壊することで、人間は自然を破壊することで、己の心の可能性をも潰してしまったのだ。

となるのです。しかも「自然を破壊」は二度繰返されています。

 思考というものは、何か特殊性を発見するためのものかと思ってしまいますが、こころ「ときめかす」働きにこそあって、加島さんの十一度にして夕菅が夕菅としてある(存在)ことを智(し)ったことの方が道元さん言わんとすることに近いように思います。

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 宮中に招かれた檀さんは、両陛下にお好きな万葉集歌を聞かれたそうです。そのときに美智子妃殿下が詠まれた歌が中皇命(なかすめらみこと)の巻1-4だったそうです。巻1-4が繁華ですので1-3から紹介します。

巻1-3
 天皇、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をしめたまふ歌

やすみしし 我が大君の 朝(あした)には 取り撫(な)でたまひ
夕(ゆふへ)には い寄り立てしし みとらしの 梓(あずざの)の弓の 
中弭(なかはず)の 音すなり 朝狩(あさがり)に 今立たすらし 
みとらしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

巻1-4
反歌

たまきはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 朝踏(あさふ)ますらむ
その草深野

皇后が天皇をお慕いする歌として二つ揚げられた内のひとつの歌(巻1-4)とのこと。

 このような話に出会います。通り過ぎてしまえば些細な話、只の話で終わってしまいますが、厳粛な場にある人の歌の選出ということが重なり、そこにどのようなことがあるか、なるかはわかりませんが、何かが働き出します。

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 今朝は、夕菅(ユウスゲ)という花の名に、ときめいた(一茎有情)話です。

 善きに尽き、悪しきに尽き、私は働きの内にあります。内に外に音声(おんじょう)を観えるように(きこえるように)、さらに気づくようになりたいものです。

ここをクイックするといろいろな仏教の教えに出あいます。