思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

我、事において後悔せず。

2009年12月10日 | 仏教

 きのうの帰宅時、車内のラジオから評論家桜井よしこさんの声が聴こえました。内容は教育問題、熱く語られていたのは新渡戸稲造先生の『武士道』でした。

 約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラブレー氏の家で歓迎を受けて数日をすごしたことがある。ある日の散歩中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
 「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるんですか」と繰り返された。
 そのとき、私はその質問にがく然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫(みち)たる教訓は、学校でうけたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことのようやく思いあたった。・・・・・・・・

『武士道』はこの序文からはじまります。桜井さんも話されておられましたが、ここで語られている「武士道」とは単なる「武士階級の道徳心的なもの」と理解するものではないことは、この本を読まれたことのある方は判ると思います。

 桜井も語られていましたが、今の時代誰がそうしたというのではありませんが、どうしてこうまでも道徳心、倫理観がなくなったのだろうか、個々しっかりと考える時がきているように感じられます。

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 一般的に「武士道」というと「武士道とは死ぬことと見つけたり」という山本常朝の『葉隠』の言葉を思い出します。

 この言葉を宮本武蔵の『五輪書』を読むにあたっても同じなのですが、後の世の特殊先行部隊、神風特攻隊などの存在を心の陰陽で理解しようとすると閉塞的な思考に終始してしまいます。

 振りかざす太刀の下こそ地獄なれ
  一と足進め先は極楽

という言葉を『五輪書』に見ます。
 鎌田茂雄先生は『五輪書(講談社学術文庫)』の中で、このことばについてどういう意味かはっきりしないが、と前おきし「百尺竿頭に一歩を進め、十方刹土に全身を現す」を引用しながら

 武蔵が「一の足進め」と言っているのは、まさしく百尺竿頭に立って、さらに一歩を進めることである。生死の関頭にたちながら、それをさらに超出するのである。敵の太刀の下にあっても生死を超脱しているならば、そこに地獄がない。否、極楽もないのである。さらに仏もないのである。

と解説しています。

 ここにあるのは武蔵の人生ではなく、人柄でもなく、強い者とは戦わなかった武蔵などの陰の武蔵ではなく、行間に読むも、人と語り聞くも、「空間的にはこの一点、時間的にはその状態」にあれば、また武蔵の「空間的にはこの一点、時間的にはその状態」の見極めが観えるわけで、

 我、事において後悔せず。

の短い言葉にも執着心を滅した姿があります。

 それは「自分を殺す」ことであり、「我を殺す」ことだということがわかります。我を欲の衝動とみるならば、「後悔せず」とは、それで良しとしたという事だということも理解できると思います。

 勇気をもて挑むこともあれば、逃げることもあります。一刹那におけるその一点とその状態での「我の滅」です。
 
 それを極めることができれば本来の世渡りができ涅槃へと導かれるのだと思います。そこには特別な瞑想があるわけでもなく”「空間的にはこの一点、時間的にはその状態」の見極め”があるだけではないかと思います。

 誰が悟った語(かた)りとか、そうでないとかの求道(ぐどう)は、愚道(ぐどう)であって、ここにまた「怒」をみるならばそれはそれまでのことだと思います。

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 獅子に乗った文殊菩薩は善財童子に語ります。

 あなたが旅に出るところでは、いろいろな人に遭遇するだろう。その人びとに遭遇して、その人の人生に持っている何かいいことを、一つずつ自分のものに求めていきなさい。

と(華厳経)。
ここをクイックすると「その人の人生に持っている何かいい教え」に出会います。