時々揺れる天井さえなければ、この群がる人間像が地震による避難所でのひとときだなんて思わなくなっている。あの阪神大震災からもう21年過ぎた。関西の人間からは、もはや過去のことになり果てているフシも現在では見えなくもない。21年は長い、、。
そう、この劇を大震災の避難所での出来事なんて、限定して観るとどうも狭い解釈しかできなくなるような気がする。僕は敢えて、どこかの病院で時間を止めて生きている人間像としてじっくり見よう。
なぜなら、21年前に上映された切迫感と現在のそれとは観客の方でもかなりの時代感が存在するからだ。例えば、あの時、職場の先輩が見舞いに持ってきたサンドイッチ一つにしても現在の人間からすれば何のことか分からないような気がする、、。体験とは何にも勝るものでもある。
そこには人間のそこはかとなく生きざるを得ない人間たちがいる。日頃の災いから解放された吹っ切れた人間たちがいる。素になった人間たちがいる。海の波の音を確かに感じる人間たちがいる。それは人間本来の原点でもある僕らの姿なのだ。
最初と最後に出てくる若い女性の独りで寝転がった姿。ひょっとしたらこの劇は彼女が見た幻影かもしれないと思わせるフシもないではない。それは我々が日常、自分の部屋で見る夢の中での出来事かもしれないのである。
そんなスケールの大きささえ感じる演劇であった。緊密な演出にはっとするも、そこには確かな詩情があった。決して災害での演劇ではなくなっている。
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