最近の『週刊金曜日』、それから岩波の『世界』でも、注目すべき記事がある。
●『「集団強制死」歪曲に世代超え11万人が結集』(鎌田慧、『週刊金曜日』2007/10/12)
『東京新聞』の鎌田氏のコラムに予告があったので、この金曜日に福岡で買おうと思ったら、福岡での発売日は土曜日とのことだった。(沖縄では翌週火曜日。)
鎌田氏は自ら県民大会に参加し、その盛り上がりを実感として書いている。これを読むと、主催者発表の「11万人」が実際より多いだの何だのという指摘がいかにつまらないものかと思える。鎌田氏にとっては、「ひとつの会場で、これほど詰め込んだ集会は、多分、はじめて」であり、また、鎌田氏の訪沖の飛行機でも、偶然、両隣の乗客が大会への参加者だったということだ。また、新崎盛暉氏は、1995年の米兵による小学生暴行事件に対する抗議集会(8万5千人参加)よりも人が詰まっていたと鎌田氏に言ったそうだ。
鎌田氏の文章は、さすがというべきか、情緒的でありながら本質を衝くものだ。
「62年前と同じように、米軍の攻撃機が飛ぶ下で、ほかならぬ友軍のはずの日本軍が、沖縄の人たちを追い立てた集団死の事実を認めよ、という集会を開かなければならない。そのときとおなじように、卑劣で無責任な仕打ちが続いている。」
「それはお前の思い過ごしだ、だれも命令などしていない。そう言い張るのなら証拠を出してみろ、と政府がいうのは、人間の存在の根幹に関わる問題である。自己に都合の悪い歴史を書き直すのは、保身の一種のようだが、それは相手の体験の否定である。体験は個人にとってのアイデンティティであるから、その体験の否定は、存在の否定でもある。嘘つき奴!記憶の否定は、心の奥に手を突っ込んで、裏返しにしようとする暴力でもある。」
この続編は同誌10/26号に掲載される。
●「教科書検定”修正”という虚構」(藤吉孝二、『週刊金曜日』2007/10/12)
「検定」への政治介入の背景について整理している。言うまでもなく、現在政府が「検定を撤回するのは政治介入であり望ましくない」と答弁していることではなく、そもそも「検定」が政治介入であったことを指している。
高嶋伸欣氏(琉球大学教授)は、今回、教科書会社からの「訂正申請」(本来は凡ミスや誤字脱字などの訂正に使う)を受けて修正する方向であることを、「検定」の「撤回」ではないから、本質的ではないと見ているようだ。確かに、落とし処として、その「訂正申請」が固まりつつあるように見えるが、「検定」そのものの恣意性が誤っていたとの結論を出さなければ不十分だということだろうか。
この記事は、前首相が主導して「教育改悪」を行い、その一環として教科書についても改悪する流れが出来上がっていたことを改めて指摘している。勢いがあったころの―――といってもたかだか1年間程度での変化だが―――「日本のネオコン」による政治介入を、再度政治介入によって元に戻さなければ、また私たちが忘れた頃に問題が発生するのではないか。少なくとも、「検定」撤回だけを「政治介入」だと表現するのは、しらばっくれすぎだ。
●「誰が教科書記述を修正させたか」(安田浩一、『世界』2007/11)
上記事よりさらに具体的に、「検定」時の恣意性を検証している。これまでの説明=文科省は「検定調査審議会」に口出しできない、が事実に反していたこと、である。
記事では、文科省が審議会に提出した「調査意見書」と、審議会の答申を基にした「検定意見書」は全く同じだったことを明らかにしている。すでに、審議会には沖縄戦の専門家がひとりもおらず、議論されなかったことが『沖縄タイムス』により報道されている。つまり、文科省→(意見)→審議会→(そのまま検定意見)→(議論せずスルー)→検定、という流れが明確になっている。もちろん、源流は前政権の意向にあった。
●沖縄戦教科書検定意見の撤回を求める総決起集会
2007/10/15(月)18:30-20:30、星陵会館で行われる。いかに「県民感情に配慮」という、本質とは対極にある考え方を退けていくのか、また、撤回をどのように強く求めていくのか、私も見ておきたいと考えている。