Sightsong

自縄自縛日記

久高島の映像(1) 1966年のイザイホー

2007-10-31 23:30:38 | 沖縄

琉球神話開闢の地とされる久高島の、もっとも知られた祭祀はイザイホーである。12年に1度だけ行われ、1978年を最後に行われていない。久高島に住む父と母から生まれた、30歳から41歳までの女性のみが、神として、このイザイホーに参加することができる。いまでは成り手がいないわけだ。

最後のひとつ前のイザイホーを記録した映画、『イザイホウ』(野村岳也、1966年)が、早稲田大学で上映されたのを観た(2007/10/31)。この時点でもう最後のイザイホーになるかもしれぬということで、記録として撮らせてもらったが、上映は望まれず今の今まで眠っていたのだ、との野村氏の弁。今回は本土での初上映だった。

久高島については、行ったら身体に変調をきたした、とか、変なことをしたところ祟りにあった、とか、たまに沖縄を訪れるだけの私の耳にもさまざまな話が聞こえてくる。今にあっても畏敬の対象と言っていいのだろう。現在の人口は200人強だが、映画が撮られた40年前には600人くらいいたようだ。

映画は、半漁半農の久高島の姿を描くところからはじまる。男は漁師になり女は農業をしつつ神にもなる。昔、沖縄近海の船長には慶良間と並んで久高の出身者が多く、大人になれば半強制的に漁師になっていたらしい。既に亡くなった西銘シズさんの声で、男が海に出て浮気をしても当然許すものだったと語られる。海難事故が多く、男にとっては「板一枚下は地獄」だから、土地や家や家族を護る女性が神になりえたのだ、という話もあった。このあたり、吉本隆明『共同幻想論』において母系社会だと論じた、その根拠には組み入れられていなかったと思う。

また、土地は共有を原則としており、農地を十に、さらにそれらを十五に分割して分け与えられていたと解説される。人口が3分の1に減少した今でもその構造は変わっていないかもしれないが、その分、放棄された農地があるのだろうか。ただ最高の神職者の特権はあり、私有地や、イラブー(海蛇)を獲って燻製にする権利は、故・久高ノロさんにあったという。私が久高島を訪れた一昨年、その前日に、何年ぶりかでイラブー漁を復活させたと港で聞いた。

映像はいよいよ祭祀を映し出す。女性は皆白装束だ。新たに神になるナンチュは白布で頭を縛らず、ばさばさの黒髪を出している。そしてノロも、ほかの既に神である女性たちも、ナンチュも、手を叩きつつ「エイファイ、エイファイ」とかなり速いピッチで言いながら歩み続ける。ゆっくりと厳かなのではなく、多くの白い神とこれから神になる人とが繰り広げる群舞がもたらす恐ろしさが感じられる。これが形を変え、何日も行われる。

イザイホーが終わった後、皆が笑顔で踊る。久高ノロさんの見事な踊りも見ることができた。

ちゃんと映像を観たのは初めてだが(実は某所で記録を少し見た)、本当に凄い。しばし呆然としてしまう。魅力的とか何とかは、その後に頭で理解される。 故・岡本太郎が目撃して『沖縄文化論』(中公文庫、1972年)に書いたイザイホーは、このときである。もっとも、入ってはいけないタブーをかなり無視したために、沖縄ではこのときの岡本太郎のことは評判がよくないようだが・・・。写真家である故・比嘉康雄が記録したイザイホーはこの12年後、1978年の最後のイザイホーである。確かに『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(集英社新書、2000年)の写真を見ると、映画よりも参加者の神女が少ないようだ。

ところで、先日、沖縄一坪反戦地主の方に何故か頂いた、伊波普猷の『琉球人種論』(那覇小澤博愛堂、1911年)を読むと、アマミキヨ・シネリキヨの琉球開闢神話について、いくつかの興味深い仮説があった。曰く、アマミキヨのアマミは奄美と通じており、さらには古事記と類似している。また、さまざまな言葉がアイヌと共通している。だから、共通の祖先を大陸に持っており、本土に渡ってきた祖先の一部はアイヌとなり、一部は本土に残り、一部は九州から奄美を経て久高島に上陸し、それから知念に進んだのだと。この百年近く前の説がどの程度妥当でどの程度覆されているのか、じつは全く知識がないので評価できない。

久高島の記録映画は、今週の土曜日(2007/11/3、中野PlanB)、『久高オデッセイ』(大重潤一郎、2006年)も観るつもりだ。

●『イザイホウ』 → リンク

●『久高島オデッセイ』 → リンク


斎場御嶽から望む久高島(2005年) ミノルタオートコード、コダックポートラ400VC