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自縄自縛日記

ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』

2009-09-12 10:50:31 | 思想・文学

『ミシェル・フーコー思考集成 I~X』が、文庫版『フーコー・コレクション 1~6』(ちくま学芸文庫)として再編集されている。第4巻は『権力・監禁』であり、『狂気の歴史』(1961年)、『臨床医学の誕生』(1963年)、『監獄の誕生―監視と処罰―』(1975年)などに関連した発言、インタビュー、対談が中心となっている。語りであり、濃密に次から次へと変奏曲を繰り出してくる著作とは異なる。しかし、始終道を踏み外すこと自体が本流となり、唐突に凄い発言を口にする。流れに身を任せるように読み、突然、ごりっとした違和感で立ち止まってしまう、そんな読み方が相応しいように思う。

 

ここでのまなざしは<権力>に向けられる。ヒエラルキーに沿った<権力>ではなく、<権力>なるものの蠢きと増殖、世界というエーテルに遍在し、どこを切って顕微鏡で見てもあらわれる、おそらくそうしたものだ。そして<権力>は威力だけでなく生産でもあり、過剰にインフレートする。

『監獄の誕生』でしつこく述べられたように、<監獄>(つまりそれは、<病院>であり<学校>である)は、<権力>を脅かす存在を排除する装置ではない。逆に、<権力>を脅かす存在、マージナル域をあえて作り出し、それによって<権力>全体の強化にする装置である。

毛沢東主義者との対談では、それはフランス革命までの<権力>生成過程に過ぎないのではないか、との批判を受けている。現在の眼では、それは現在の姿に他ならないように思われるのだが、それよりも、この対談が行われた1972年にして、文化大革命まっただなかの中国の実際の姿を誰も知らず、美しい妄想でのみ取り上げられていることが異常である。このマオイストによれば、裁判所というものは人民の正義を適切に扱うものに他ならない。もちろん、明らかにそうではなかった。

本人曰く、フーコー自身ほど反構造主義的人間はいないそうだから、分裂気味に発言をいくつか抽出してみよう。

○<権力>はそれ自体の行使によってさらに力を増し、消滅はありえない。ヨーロッパでは、マルクスよりずっと前から、「資本主義の打倒まであと十年だ、あと十年だと性懲りもなく思い続けてきた」。ところが資本主義は今なお健在である。

○<権力>関係はいたるところ、あらゆる瞬間に起っている。「食卓で鼻の穴に指を突っ込む子供の反抗」のような反抗と支配、支配と反抗との不断の連鎖をとらえねばならない。

○十九世紀の遺産としての分析手段は、<権力>の過剰という現象に、経済的な図式によってしか接近しえなかった。しかし、ハンガリーでも、アルジェリアでも、経済的矛盾を超えたところで<権力>が遂行されていた。

○<権力>は上部構造ではなく、生産力と共にたえず変形している。一望監視装置(パノプティコン)というのはユートピア計画であった。それはもろもろの小宇宙に出現する。

○禁止の力をもつ<権力>とは、否定的で、狭く、古臭い考え方にすぎない。本当は<権力>はものを生み出し、快楽を誘発し、知を形成し、言説を生み出す。そうして人びとは<権力>にいつまでも従う。

○恐怖政治というのは規律の究極形態ではなく、その失敗のことだ。社会主義というものには、安易で無駄である自由の憲章や新しい権利宣言は必要ない。社会主義がもしも活性化を望み、人びとをうんざりさせるようなことになりたくないと思い、望ましきものたらんとするなら、<権力>とその行使の問題に答えなければならない。

ジル・ドゥルーズは別の言葉で表現する。

「・・・経済的な意味でも無意識の領域においても、投資(=備給)という言葉を持ち出した場合、利害とは究極の言葉ではないということ。ひとは必要とあらば、自己の利害に反してというのでもなく、というのは利害は欲望にしたがい欲望がさしむける場所に存在するからですが、自らの利害よりもより深く漠然たるかたちで欲望しうるものだ、ということを説明するような投資(=備給)が存在するのです。違う、一般大衆はだまされはしなかった、しかるべき時期にファシズムを欲望したのだというライヒの叫びに、耳を傾けざるをえません。権力を塑型し、これを拡散せしめる欲望の投資(=備給)というものが存在するのです。」

●参照
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』


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