Sightsong

自縄自縛日記

『季刊at』 有機農業は誰のものか

2008-08-04 21:22:34 | 環境・自然

『季刊at』12号(太田出版)では、「有機農業は誰のものか」と題した特集を組んでいる。前号のコーヒー特集がかなり面白かったので読もうかと思っていたところ、編集者のYさんに頂いた。

有機農業と聞くと、「向こう側の世界」だと思ってしまう都市住民、すなわち私も含めて、生きる手段を身につけていない駄目人間にとっての考えるきっかけを、本誌からも拾い、考えていくことができるかどうか。中国の餃子事件によって突然ことさらに驚き、極端な言動に出る多くのひとの愚を見るにつけ、この断絶は絶望的なほど大きいのだろうとおもう。(なお、餃子工場のあった石家荘を訪れたことがあるが、外で食べた朝食は本当に旨かった。)

さまざまな視野の報告や論文がおさめられているが、その多くにおいて危機感として感じられるのが、ネオリベラリズムに有機農業が取り込まれてしまうことだ。有機農業なるものの存在が、極端にいえば、<農業の本来のあり方>に意識的であることを喚起すべきものだとしても(もっとも、有機農業が<農業の本来のあり方>とは一意にはいえないのだろうが)、いつの間にか、流通構造における望ましい差異として資本主義のフェティシズムの一端を担ってしまうというシナリオである。それはひとによって、高級スーパーでのブランドであったり、安全性や旨さと価格とのバランスを真剣に検討すべきものであったり、「マックとコーラ」以外関係ない、というものであったりする。

ネオリベの文脈でいえば、WTO、農業の大規模化あるいは保護すべきものとしての<埋め込み>、反動としての食糧自給率の問題視、などが依然として問題としてある。私自身は、原剛『日本の農業』(岩波新書、1994年)を読んでより特に、小規模農家への直接補償(デカップリング)が必要だとおもっているし、大規模化という幻想には限界があるだろうとおもっている。実際のところ、本誌でも篠原孝『政治家が農業・農村・食料に責任を持つ』でも言及されているように、民主党の「農業者戸別所得補償法案」が衆議院で否決されるなど進展は難しいようだ。その民主党にしても、テレビの討論番組を見ていると、(他の政策と同様に)意見がばらばらであり、コンセンサスができあがるには時間がかかるのだとおもう。しかし、農業支援が、食料自給率向上という、(前から問題であったにも関わらず突然騒ぎ始めた)ナショナリズムの形をとってなされるとすれば、随分歪んだ形だ。

中国の野菜に関する報道には、過剰な農薬の利用という実態が必ず含まれている。なぜ農薬を使うかといえば、市場があるからだということは、誰でも考えればわかる。過剰な農薬が、商品の市場価値を下げてしまうのではないかという、漠然とした市場への期待があるかもしれないが、それが充分に市場に反映されないことと、上で述べたようなフェティシズムの充足のみというアンバランスさ、という答えがいまはあるのだろう。<自分の身は自分で守ろう>では、それに対する解としては素朴すぎる。

農薬の記憶にはろくなものがない。農薬散布中は、田舎道なので回避もできず、農薬のカーテンのなかでやむを得ず息をしてしまい喘息をこじらせた。小川からどじょうもタガメも姿を消した。しかし、他ならぬ農業従事者の声として、農薬は過酷な労働から大勢の農民を解放した事実があったとする山下惚一『私が有機農業をやらない理由』は凄まじく、具体的で、説得力がある。この一篇だけでも、絶対に本誌を読む価値がある。

●参考 コーヒー(1) 『季刊at』11号 コーヒー産業の現在


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